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「ふつう」を揺るがされる恐怖

 『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか?』という本を読んでおりました。わたしはこのnoteで発達障害、特に知的能力障害を伴わないカテゴリについてはほぼ何も発信しておりませんでしたがこれにはワケがあって、という話も含めて読書感想文+αはまた別に記事を書くつもりですけれども、この本で「ふつうの人たちは、ふつうの生活意識によって縛られているので、意識して自己の世界観や価値観に向き合わなくとも、自然な共感に従うだけで、間違いを避けて生きていくことができるのかもしれません。」(p.254)というような言明に接しました。至言ですね。わたしが常々トラウマについて感じていた(もちろんわたしのオリジナルではありません)こともこんな感じです。改めて言われてみればアスペルガー者もそうなのですよね。

 生活保護(受給者)においても同様のことが言えます。わたしはそこで人間理解の幅をかなり広げられたような気がしますけれども、これは何も要保護者(生活保護が必要な状態の人)が特殊だとか、反対に要保護者が社会的に排除されているとかそういう一面的な話をしたいわけではありません。彼らはある意味で社会の中のほかのセーフティーネットを通過してきた人たちで、これは生活保護制度もかなりの部分でそうですが、社会の中の「ふつう」が暗黙裡に制度設計の土台になっているので、(意思や能力ではなく事実の意味で)ふつうにコミットしていない人たちには、生活保護より順序的に先に検討される各種お手盛りのセーフティーネットが意図されたように機能しない場合が少なくないのです。

 何でかはさておき、わたしはなんやかんやあってふつうの外側に飛び出す経験を得ました。それでも、ふつうでないことの体験や世界観を知れば知るほど、学べば学ぶほど、逆説的に自分がふつうであったことを思い知らされてきました。対人援助、特にメンタルヘルスにかかわる職業支援者は、かように生涯を通じて自分の中の「ふつう」を解体していく作業から逃れられないのでしょう。

 もちろん、ふつうにも価値があります。というか、一生懸命に対人援助の仕事に身をやつしている人ほど、ふつうの人が奉じているふつうの価値を見誤りがちです。ふつうに守られなかった人たちを支援したり、自らもふつうでいられなかった人たちはしばしば社会規範に対して問題提起をしますし、それは当事者が生きやすい社会に必要なことには違いがないのですが、それはそれとしてふつうの人たちにとって危機であり恐怖であり得るということは強調しておく必要があります。
 ふつうの外側に飛び出してみると、実際に多くの人はふつうという曖昧な集合にある面で合致し、またある面で合致しない部分的なコミットメントでしかないことがわかってきます。それでもなお、どこかしらでふつうに足が架かっていることを以て自分が大筋ではふつうな、(裏返せば異常ではないという悲壮な思索の結末として)集団から排除されない証左として価値を置かれるのです。そして、そのことで思考を省略するというか疑いを消却することが彼らの安心の源泉(正確に言うと不安になったり悩んだりしないで済むこと、以下同)です。
 わたし達職業支援者がクライエントたちの持つ体験や世界を伝えることは、それが誠実で説得的であるほど彼らのふつうを揺るがす体験になるでしょう。それはふつうの人にとって自明性の喪失(ビンスワンガー)にも似た恐怖体験であり得ます。だから、トラウマにしろ発達障害にしろ生活保護にしろ、ふつうの人たちの好意的でない反応が実は安心の源泉である「ふつう」を揺るがされる恐怖に由来する防衛的反応という性質を持っていることに十分な注意が必要ではないかと、わたしは頓に思っています。実直な支援者ほど「みんなわかってくれない!」と憤りがちですが、わたし達のクライエントの持つ生きづらさについてわかることは、ふつうの人にとって安心を喪失することと必ずしもイコールではないにしても、体験としては地続きなのです。

 わたし自身は故あってあんまりふつうという価値体系から安心を得られなかった方だと思いますが、上にも書いたようにある側面では無自覚にふつうで、ふつうであることに守られているかもしれません。自然には疑えないからふつうなのであり、したがって断言はできません。しかし、一応社会適応している点において、客観的にはわたしがある面でふつうなのは妥当な推定でしょう。
 わたし達の協同作業者の生きづらさについて社会や他者に何かを言うとき、みんなが「自分たちのようにふつうを相対化できる」と考えるのは危険です。そこにはおそらく、恐怖に駆動された反応が起きます。ややトートロジー的ですが、意識的にふつうからはみ出せるのはふつうではない人のほとんど特権と言ってもいいスキルでしょう。ふつうからの退出障壁は高ければ高いほど内側の安心は強く、外側の恐怖も強くなるでしょう。多くのふつうの人にとって、自分のふつうさを手放すことはことは困難を極めます。

 これらは通俗的な相対主義を言いたいわけではなくて、人間存在のかなりコアな部分での異質さを了解し共存するという大きな命題のだいぶ手前ですら既に決定的に躓いている、ということを言っています。もう少し具体的には、安全装置としてのふつうは狭く硬くなり、また執着もより強迫的になっているという観察について言っています。

 わたしが弄している論理展開に従えば、人を守っているふつうを打ち砕くのではなく彼らがコミットメントを捧げているふつうの方が変わっていくしかマスでの問題解決はありません。それは結局、個人個人の経験的事実の積み重ねを欠いては達成されません。これは主語を大きくして世に問うなかれということでは決してなくて、ふつうの人たちの恐怖を認識しつつ、受け入れやすい言葉や論理を以てふつうをずらすようにするのがよい、という話です。「わからない奴は見識が足りない」という手合いはこの視点での手段としては最悪です。気持ちはわかりますし、わたしも職業支援者に同様の感想を持つこともありますが、あくまで憤る相手はふつうである以上に職業支援者ですから。
 「多数派たるふつうの人に少数派の方が慮るのはけしからん」と言われればそれはそうなので、私が言っていることは理不尽な話には違いありません。ですが、少なくとも当事者の生きづらさの理解促進や権利擁護、社会的包摂は既存の誰かとふつうの座を奪い合おうという意味ではないことに同意して頂けるのであれば、やはりそれは理不尽ではあるのです。「ふつう」も「ふつうでない」も理解できる人間にしか、原理的にはその理不尽を抱えることができません。そしてその理不尽を背負うことが、当事者にはなくて職業支援者にはある使命なのでしょうね、きっと。

  

 

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