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福祉の中の価値判断

 『社会正義はいつも正しい』を読んでいたら、ポストモダニズムは極端な相対主義ですべての文化は価値判断を内包しているとみなす、みたいなことが書かれていた。そういう言い方をすれば福祉の論法もポストモダン的なのかもしれないけれど、一方で福祉的な考え方そのものにも規範性というか価値判断はあるよな、などと思うのであった。

 福祉の考え方には、①望ましい考え方や生き方があり、②対象者がそう思わないのは支援や社会状況が適切でないからだ、みたいな発想がビルトインされていると思う。例えば、精神科に長期入院している患者さんが退院を拒否したときに、さすがに「退院すべき」と押し通す支援者は多くないと思うけれど、なんとかして退院したくなってもらおうと腐心する支援者は少なくないと思う。「その人らしい生活をしようと思えば、望ましい関わりをすれば退院したくなるはず」という前提抜きにこういう関わりを正当化出来るだろうか。「退院したい」も「その人らしい生活をしたくなるはず」も価値判断ではないのだろうか。
 一応断っておくと、私はそういう価値観を否定したい訳では無い。でも、こういう仕事をしていると、社会の規範性と福祉の規範性とのあいだに任意の線引をするのは決して容易ではないと感じる。今目の前にいる本人の意思に対して、それとは異なる任意の意思に変更されるような意図を持って働きかけるのは規範性ではないか?
 反対に、そういう規範性の一切を放棄してありのままを話を聴いても、多くの人が最終的に福祉の規範性にコミットするのとは対照的に、「地域生活」「自分らしさ」「自分でできることは自分でやる」等の考えにコミットしない人たちがいることに気づく。そして、それらが少なからず相対的な価値判断だと思い知らされる。
 このとき、「ありのまま」聴く関わりが不十分である、押し付けが残っているという意味で関わりに望ましさが足りない可能性は十分にあり得る。でもこれは、任意の望ましさにコミットするまで永久に言い募ることができるという意味で無敵のロジックでもある。

 「施設で暮らしたい」「入院していたい」「誰かにやってもらいたい」人たちに対して価値中立なフリをして「望ましい変化」を期待することに、私は疲れてしまった。彼らには自らの意思で「福祉的に望ましくないあり方」を生きる道はないのだろうか。

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