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対人援助の(dis)communication

 実のところ、私たちが大事にしている価値観、守ろうとしている対象者は、私たちがかくあれかしと願うほど愛されてなどいないのかもしれない。
 インターネットばかり見ているとそんな気がしてしまうけれど、今までこれはインターネットを煮詰めたものだと思っていた。けれど、それはインターネットの中に留まらず、現実社会にも広く流通している考えなのかもしれないと、最近は思う。

 わたしのお客さんは世渡りの賢しさを欠いた人たちであり、不器用に好機を逸し続けた人であり、枷を負って生まれ出た人であり、不条理に打ち砕かれた人だ。世の中であまり上手に(適応的に)生きていけない彼/彼女たちの話を聴くこと及び汲み取られたニーズを社会にねじり込むことが、大雑把に言えばわたしの仕事のほとんど全てになる。彼/彼女たちが何を言って何を言わないか、何を伝えたいか、そのうち言葉として発せられるものは何かは一様ではないし、わたしが見聞きしたことがあるものとは限らない。そして何より、わたしに語ってくれるとは限らない。そういう話をちゃんと聴き届けるのはとても難しく、かつ大事な仕事だ。でも、別にわたしだけがそういう難しい仕事をしているわけではなくて、対人援助というのは本当は大なり小なりそういうものだと思う。本当はね。

 本当は、目の前の人の生きづらさに真摯に圧倒され続けて、他者の苦悶にこころを八つ裂きにされ続けてようやく、わたしたちは生きづらさというものの存在をいくらかでも認識できるようになるものだと、わたしは思う。そこで自分が経験してきた望ましさ、学んできたものの正しさを揺さぶられることに耐えられなければ、或いは目の前の困りごとに対する無力が自分自身の存在を揺るがすものだと認識しなければ、支援者といえども侮り、蔑み、見下し、決めつけ、そして諦めから逃れることは難しい。少なくない支援者がその相克に耐えかねて、やがて所与の正しさを演繹することしかできないイデオローグに堕する。ましてやそれを経験しない大多数の人たちが、生きづらさとそれを解決しようとする対人援助なるものに関心を持たないのは、ある意味で当然なのかもしれないとさえ、わたしは思う。対人援助を業としない人の多くは、自分の身に降り掛かってか逃れ得ない縁に引きずられる形かで、初めて人の不条理を思い知らされるのだから。

 教育や啓蒙は経験とは独立に不条理に対するempathyを養う試みだと思うが、それが如何に困難な作業か。わたしたちが志向する"理解"とは極論すれば、貧しさは自業自得で、面倒事は御免で、障害者は閉じ込めて見えないようにしてほしい、そのくせ何か起きたときには訳知り顔で評論したくてやまない、そういう人たちのempathyを掻き立ててわたしたち好みの了解にこぎつける、そういう共同作業なのだ。わたしには「人の命は地球より重い」と思っている人たちばかりではない、という前提が共有されている気がしない。

 その意味で、共同作業者の一員たる支援者のコミュニケーションは功利的だとも合理的だとも思えない。わたしたち支援者やその対象者がそうであるように、人は感情を持っており、理屈や理念だけでは納得しない。「倫理ではこう」「理論的にはこう」「決まりではこう」「現実はこう」というイデオロギーはそれにコミットしない人たちにはなんの影響も与え得ない。黄昏を迎えつつある日本という国家の中の限られたパイを奪い合う競争の中で予算配分を勝ち取るには道理もいるし、賛同者も増やさなくてはいけない。支援者と違い、多くの人はイデオロギーだけでは食べていけないのだ。
 そのような局面では、世の中でうまく生きてゆけずときに軽侮や憎悪に苛まれる人たちがどういう人たちで、どう理解してどうすることがよくて、この世に地歩を築いて生きていけるべきなのはなぜか、そのために適応した人間や社会がコストを割かねばいけないのはなぜか、そしてそれがなぜ必然だというテーゼになったのか、という根本的な問いに、支援者は応えなければいけないのかもしれない。いま存在しているように見える合意が建前だけのものに成り下がっていることに思い至らないといけない。それらは多くの人にとって何も当然ではないのだと思う。

 長々と書いたが、要するに「なんでわたしたちの正しさがわからないんだ!」というタイプの一連のコミュニケーションは、少なくとも対人援助の文脈では根本から不適切だ、ということだ。このコミュニケーションの様式は、支援者と支援対象者、支援者同士、支援者と非支援者などの様々な局面で悲しいほど同じ形で再演されている。そしてそれがほとんどの場合でうまくいかない(いかなかった)にもかかわらず連綿と繰り返されている。
 これは、知識や技術の問題ではない。目の前の不条理から目を逸らさない、色眼鏡で見ない、自分の理解を押し付けないというスタンスの問題で、わたしたちが大事にしているものや守りたい人についての価値観を相手が共有していないかもしれない、という可能性をきちんと座視し、相手に合わせたコミュニケーションをとれるかどうかの感性の問題で、自分の側が一意に正しいと決めてかからないという誠実さの問題だ。

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