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倫理や価値を再発見すること

 どなただったか失念したけれども、さる心理学の人が言う、実践から理論を再発見するという話が好きだ。目の前の人間にベストを尽くそうとする努力から帰納的に導かれる話が好きだ。翻ってソーシャルワークではどうだろうか。

 先ごろ、障害者の権利に関する条約に絡んで国連のヒアリングに対する日本政府代表の回答がよろしくなかったとかで、なにやら界隈がにぎわったらしい。
 このニュースに対する一部の(一部と思いたい)関係者の反応に私はひどく失望している。彼らは日本政府が批判されることがうれしくてたまらないように私には見える。日頃自分たちが軽んじられたり渋られたりしていることへの反応なのか、それとも単に政治的な信条なのかは知らない。彼らは自分たちを批判の対象外だと思っているのかもしれないが、メディアを媒介にして世界に伝えられる内容は、批判されることをうれしく思う業界人も基本的に一緒くたにJapanである。現地でどのようなリップサービスを受けようと、国際社会の舞台で日本が一からげに誰かの留飲を下げる手段にされていること自体に、何も変わりはない。

 わたしは恥ずかしく、そして悔しい。私の観測できるところで日々いい仕事をしている人たちがそのように一からげに批判されることが。自分から見える望ましさがあまりにも遠くに留まっていることが。そして何より、その批判を持ち帰る日本人たちが、自分の内的基準ではなく外国から拾ってきた所与の原則から演繹する形でしか、何が望ましい在り方なのかを言えないことが。結局、自分たちの中に望ましさの内的な基準がないから、誰かがこう言ったからとか、〇〇学ではこうなっているとか、××論ではこうだとか、借りてきたもので語ることしかできないのだろうと思う。

 しかし、私たちの望ましさは、果たして外国を参照しなければ導き出せないものなのだろうか。本当に日々の実践の先に見出すことができないのだろうか。権威付けされた何かに天の高みから断罪されなければ何も為し得ない愚かな者たちだろうか。私たちはともに生きる人たちからいかなる倫理や価値も導き出すことができないのだろうか。私たちはそれほどまでに空虚な存在なのだろうか。

 私たちは心理学徒に倣って再発見しなくてはならない。日々の関わりの中で、仕事の中で、何が望ましいのかを自問し、そのときどきの最も望ましい選択を積み上げていく先で、帰納的に価値や倫理にたどり着かなければならない。ともに生きる人たちから教えてもらったものを頼りに言葉を紡がなければならない。現状とあるべき望ましさの両方を見た先に、障害者の権利に関する条約の求めた理想を再発見しなければならない。そのときに、仮に少しばかり違うとしても、私たちは借り物ではなく自家薬籠中にそれらしい価値や倫理を見出すことになると、私は思う。
 私たちの現状は、私たちの実践から育まれたものから望ましさを語ることが、あまりにも欠けていると言わざるを得ない。
 

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