見出し画像

おじさんはまだまだ頑張らないといけませんか

 孤独死まっしぐらのおじさんなので思わず笑ってしまいました。つくづく救いがありませんね。



 学校を出てからというもの、ライフステージを駆け上がっていく周囲の人間を羨みながらここまで生きてきました。その間、仕事以外は特に何も実らなかった反面、とりあえずキャリア的には多少見通しが立つところまで来ました。気づけば、日本社会においては何をぶつけてもよい怨嗟の依代のような存在、いわゆるおじさんになっていました。

 自分の人生の責任を誰かに求めたいわけではありません。人間関係の維持発展にコストをかけてこなかったのも自分だし、その結果として交友関係も薄く家族もいない人生になったこともまた自分の選択の結果です。他人にとっていかなる意味でも付加価値をつける努力をしてこなかったのだから当然といえば当然で、いまさらミソジニーみたいには振る舞う気にもなりません。ゼロに何かけてもゼロなので他人に帰責しようがないんですよっていう理屈、通じますかね?
 また、自由意志など幻想だとか環境に決定されているとかそういう議論を持ち出して自分を擁護するつもりもありません。むしろ社会に自分を定義させないぞ、という反骨心みたいなものがあるくらいです。
 結局、欲しかった人生が出力されるように入力しなかっただけで、基本的には入力したとおりに人生が出力されたのです。ただそれだけです。

 そういうわたし自身については社会的に半人前だし愚かなおじさんなので石を投げられてもしょうがないなぁとは思います。最低限他人様に迷惑をかけないように努力していますが、それも社会の末席を汚す権利くらいの認識です。
 そういう理路を他人に当てはめるつもりもないので、世のおじさんはおじさんというだけでさんざん言われて理不尽だとは思うし、迷惑をかけないこと自体にそこまで価値を見出している訳でもありません。ただ、わたし達が誰かを時代精神に置いてきたようにわたし達自身もいずれ時代精神に置いて行かれるというのに、未来の自分に石を投げている様な、カジュアルに他人を指弾するのは大変戯画的な振る舞いですね。

 一応わたしなりに社会や他人様の迷惑にならないように仕事は頑張ろう、というよりあらゆる余暇活動が単なる時間潰しのようになり、こころをやつせるようなものがどんどん無くなってきたのを痛感します。趣味がなくなって自分がエネルギーを注げる対象が仕事しかなくなってきたようです。そういう受動的な理由だから仕事しかしていない割にあんまり勉強しないんですよ。まあでも、これ以上仕事頑張って何になるんだろうと考えることはありますね。ひとまず食っていく上で困らないくらいのキャリアを築くことに成功した今、職業倫理だけでは頑張るのも限界なんですよね。だいたい、個人的な幸せを糧に仕事でもサクセスしている人なんてごまんといるのに、惨めな代償行為だけで仕事をしても何かが結実する訳じゃないのです。これもまた、人に当てはめるつもりはありません。
 tweetに引用されている"地味な"処方箋はそうでしょうねぇという感じですが、こういう地味な処方箋に地道に取り組める人は既に孤独死の未来を退けているでしょうし、なんかもうそもそも自分の人生を良くするためにコストを投入する動機がないんですよね。まあ多分こういう感覚が、キラキラしてる人や何かに帰責している人にこそ最も通じないんですよね。きっとおじさんの実存などどうでもいいのでしょう。悲しいことです。

 これでも自分なりに必死で生きてきたんだと、最近はそう思うようにはなりました。必死に生きて、ようやく半人前でしたが、まあそれも人生です。頑張らなければもっと惨めだったでしょうし。頑張りが足りなかったのだと言われればそうだし、頑張り方が適切でなかったと言われればなおそうでしょう。わたしが社会的にそういう扱いになること自体に別に異論はありません。でも、この長い長いロスタイムのような人生を消化するだけと化したわたしはまだしも、当人達なりに必死に生きてきたであろう特に何のラベルもないおじさんは、ただ社会や他人から労られることにすら、まだまだ頑張らないといけないのかなぁ?とは思いますよね。だとしたら、とてもじゃないですけどやってられませんよね、きっと。本当、やれやれですね。

おしまい
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?