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『こころの秘密が脅かされるとき』読後評

 『こころの秘密が脅かされるとき』を読み終わったので某所にレビューを落としてきました。noteではあっちに書かなかった個人的見解や角の立つ話などを書いていきます。

ボラスについて

 ボラスは『太陽が破裂するとき』以来です。あれほど分析家の感じ悪いところが露呈した(個人的見解ですよ)本もなかなかないよなと思っていて、正直今回の本も「ボラスかぁ…」とやや尻込みしていたのですが、内容的には買ってよかったです。ボラスは自分には合わないという結論自体は変わらないのですが。クライエントの心理的な自由をストイックに追求する立場から学ぶものは大きいですね。これは自戒を込めて言いますが、連携や情報共有、リファーという形でクライエントとマンツーマンで向き合わないソリューションをいくらでも持っているソーシャルワーカーにも、こういった批判的な言論が必要でしょう。

一人で抱えること

 ボラスの主張はかなりラディカルではあるのですが、彼は社会的な要請、つまり身体的社会的法的保護が必要な局面があるということをよく理解していて、その上でそういった社会的要請に応えるべき支援者と精神内と界して扱う精神分析家を異なる専門職として位置づけることで、背反するニーズの両立を図る穏当な解決策を提案しています。精神分析ギルドを守秘義務の例外に位置づけるのはいささか一貫性がないとは思いますが、現実的にはそれしかないでしょう。わたしはてっきり「一人で抱えきって(何かあれば)それで終わりよ」くらい言わないものかと邪推しながら読んでいたのですが、当たり前ですがクライエントと共倒れするかようなあり方をよしとはしませんね。
 あと、これはボラスの意図かはわかりませんけれども、二者関係の中でクライエントの心痛を抱えることの大切さを問われていると、わたしは読み込みました。クライエントが誰にも言えずに抱えてきた秘密をようやくセラピストに話すとき、それを情報共有や組織や社会へ報告する形で第三者に提供することは、クライアントに対して「あなたの心痛を受け止められない」というメッセージになるのではないか。そのメッセージを受け取ったクライアントが、自分一人で抱えてきたものが目の前の専門家にも抱えきれないものだと悟ったとき、そこには絶望があり得るでしょう。「一人で抱えなくてもよかったんだ…!」という第三者的な安全保障感が生じるには、論理的には第二者たる聴き手経由なくしてはあり得ません。愛着という二者関係の成立を経由せずに社会を含む第三者との関係から安心感を調達できないことと、言っていることはほぼ同じです。それがサイコセラピストであれソーシャルセラピストであれ、彼/彼女が抱えてきた重荷をまずは自分で受け止めようという意気が、ソリューションにかかわらず必要なんですよ、きっと。なぜ彼/彼女たちは社会的な庇護ではなく支援者との二者関係の中で秘密を話さねばならなかったのか、それにはクライエントが社会規範とは異なる反応を期待してのこともあるでしょう。その点は強調される必要があります(ケースワークにおいても、日本だけで珍重されていると噂のバイスティックという人がケースワークの原則の一つに非審判的態度という要素をあげて、ケースワーカーが社会規範と同一化することを諌めています)。
 ボラスはセラピストが支えられることの重要性をちゃんと言ってはいますけれども、わたしは言外に「ちゃんと自分で抱えてみせな」と言われた気がしました。そこもまた葛藤のあり得る領域なんでしょう。

現実の介在する精神分析はどうか

 一方で、ボラス自身がPrimitiveな精神分析家であるがゆえに本書ではあまり問題にされていませんでしたけれども、対人関係精神分析のような現実の出来事を扱う流派をはじめとした現実界に言及する精神分析というのは一体どのように位置づけられるべきだろうか?というのは門外漢なりに疑問なんですよね。対象関係論的には現実ではなく精神内界の母子関係に着目しているのだから空想として訴えを聴き通すことができる、くらいまではなんとか理屈をこさえられるのですが、現実の母子関係、現実に起きた発達上の逆境、現実の対人関係を現実の出来事として分析に役立てる流派では、必然的に現実に起きている報告義務の対象となる出来事に対してボラスの論法は通用しないんじゃないかな?と言えそうな気がします。ちょうど今フレッド・パインを読んでいるのですけれど、彼は現実の発達環境を精神分析の中に位置づけていますね。観察された現実の発達環境が虐待的なものであったとき、それは必然的に精神分析と報告義務との衝突を生む気がします。

神経生理学的見地

 『太陽が破裂するとき』を読んだときも感じていたことですが、ボラスは今日の神経生理学的な知見にほとんど言及していませんね。むしろ積極的に無視してさえいます。彼は条件付きではあれ「統合失調症は治癒する」と言っていて、また別のところで彼の自己愛性パーソナリティ障害のクライエントについての重厚長大な論考を読んだときは、わたしにはクライエントが何らかの脳器質的な障害、具体的に言えば境界知能の影響を被っているように思えたわけです。統合失調症にしても境界知能にしても、精神医学が「脳科学の知見と接続させられるような均質な症例を提出していない」という計見一雄の立場に全面的に賛成しているわたしとしては、そういった今日の脳機能障害の枠組みの中に精神分析が奏功する人が現れること自体に疑問はあまりないのです。ただ、それはそれら脳機能障害に一般化して考えることもまた適切ではないのではないとも思うのですよね。ある属性を持つ人が分析可能性を有するときに、その属性が分析可能性を決定するとは限らない。その意味で、すべてを器質に還元する生物学的精神医学と反対の方角で同じ過ちを犯していると、わたしは思います。ある症状(精神病エピソードでさえ!)に脳器質的な背景が先行する場合とそうでない場合があること、脳器質的な変化に由来する症状には薬物療法が機能する(症状に対する外挿的な鎮静化によって得られるQOLの向上が心的活動の抑制のデメリットを上回る)こと、やり方の違いはあれ、きちんとしたコーディネートがあれば脳機能障害の有無によらず心理的なアプローチが有効なことというのは、そこまで難しい話なのでしょうか。別に精神分析が設定する概念の範疇が精神医学のそれに準拠している必要はないので「精神病から回復できる」のは精神分析的に妥当なのでしょうけれど、であれば「統合失調症は治る!」みたいなのも精神医学のタームを意図的に混用した境界侵犯じゃないかとは思うんですよ。それに、これはボラスに限った話ではないのですが、精神分析家は概して分析可能性がないとみなした層に極めて無関心で冷淡なのに、無自覚に彼らを包摂する包括的概念として精神分析理論を提出していますよね。そういうところが、わたしが根本で精神力動系の人たちと合わないな、と思うところです。ボラスも然りで、その結論は変わりません。

今日のSNSに照らして

 本書が書かれた当時はまさかSNSのような個人の情報発信の敷居を根幹から破壊するテクノロジーの到来は予想されていなかったことでしょう。そして、よそのことは知りませんけれども、日本の言語空間ほど野放図に患者の情報が(形式的な体裁を守るだけで)流通している事態も予測できなかったでしょう。報告義務という法的社会的に切実な自己防衛ではなく自分の欲求を充足するために専門家がSNSで臨床素材を撒き散らしている日本が異常なんだと思います。最近も身体医学の先生が内輪のコミュニティで訴訟の一方当事者の個人的な属性をバラして、それを取り巻きが弄んでいたりしましたね。別に自分の患者ではないので守秘義務の範疇ではありませんが、他人のパーソナルな属性がここまで弄ばれているのには閉口しました。医師のような知的集団にあってもその程度も言えるし、勉強が出来ることは倫理性を担保しないとも言えます。本書を読むと、専門家がSNSでカジュアルに症例を提示していることの異常さがわかるでしょう。個人情報をマスクしたからとか架空事例だからとかではないんですよ。レビューにも書きましたけれど、現在過去未来のクライエントを含む社会の中で「専門家は秘密を守らない」というコンセンサスが暗黙裡に育まれることが問題なのです。特に未来のクライエントが支援者の前に現れなかったとき、それがそういうコンセンサスのなしたことなのかどうかは検証すら出来ません。彼らの逸失利益は計算不能です。卑しくも「専門家のつぶやきを自分に関連付けるのは妄想だ」と開き直る専門家もいるようですけれど、実際にフルオープンなSNSで臨床素材をばら撒いている専門家がこれだけいるのだから、仮に妄想だとしてもその素材を与えているのは専門家の方でしょう。精神病体験下などでは支援者の発言が妄想の素材になることがありますけれど、だからこそわたし達はその鉄火場において発言一つ一つに細心の注意を払うわけです。自分のためにSNSで症例を披露することにそれらと同じ水準の擁護が成り立つかどうか、考えてみればよいでしょう。

臨床過程が社会に開かれる外部性

 また、中には当事者が自分を臨床素材として役立てることに消極的に同意してくれたり、あるいは社会に役立てるために積極的に申し出てくれることがあります。支援者はその申し出を職業能力の向上に使い、現在未来のクライエントの理解と支援の質の向上という形で還元する循環があります。支援者はクライエントの協力なしには支援者として成長できないのですよね。申し訳ないことに。そしてその循環はこれまで学術誌や内密な集いなどの密室で社会から隠れて密やかに行われていたものです。それが社会に対してオープンになったのはSNSより前、クライエントの持つ臨床素材を専門家が社会運動に利用するようになってからでしょうか。
 しかし、自らをエビデンスとして役立ててほしいという申し出には外部性があります。前述した「支援者は秘密を守らない」コンセンサスという外部性です。たとえ当事者といえども、自分の有する属性を一般化できる材料など持ち合わせ得ないのです。本当はどこまでいってもあくまでn=1の範疇でしかない。どれだけnを積み上げても全称命題にはなり得ない。平たく言うとですよ、社会運動のためにパーソナルな情報を社会に開く界隈には、それらを秘密にしておきたい人はアクセスできなくなるのですよ。余談ですが、そこに自由意思の存在を認めなかったこと、すなわち「回復過程は特定の社会的性向を獲得する」というイデオロギーを設定したことが、運動的なものの一つの失敗です。この傾向はボラスの言うソーシャルセラピスト界隈で特に顕著だとわたしは感じます。activistたちは、自分たちの結論に同意しない人たち、自分を社会的課題解決の材料にされたくない人たち、少なくとも今は秘密のままにしておきたい人たちが支援から受ける利益を毀損している可能性があることに葛藤すべきだと、わたしは思います。秘密保持についてオープンとクローズの両方が選好される可能性を有しているとき、クローズを原則とすべきなのは自然な発想ではありませんか。それらも含めてSNS臨床は論外と言わざるを得ませんね。

かくいう自分は

 とはいえ、過去にこんなことを書いている自分とて、個人を特定できなければ良いという形式的な理解の延長でnoteにクライアントから得た経験を使用していたことは否定できません。ですから、ここに書いていた内容は程度の差はあれ、基本的にブーメランとして自分のSNS運用に返ってくる批判です。認識が甘かったと言わざるを得ませんね。

おしまい



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