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望ましさはスケールするのか

 このところ自分の進退を伺っており、それに合わせて幕引きを考えながら仕事をしているのですが、ここに至って、個別ケースを超えたもう少しマクロな目的についてやり方が、少なくとも今のフィールドにおいては実を結ばなかったのだなぁ、という結論に至って感傷に浸っています。


 わたしの観測範囲において、勤務時間内にマクロな政策論や規範論を語らう人たちには個別対応があまり得意ではない(当人にその意識があるかは知りませんが)傾向があり、自分がワークしないことを棚上げするんじゃないよと鼻白んでいたのですが、一方でスマートに"ケースをまわす"人たちから垣間見える人間理解や社会への問題意識の浅さにも辟易としていました。

 そういう環境の中で、わたしはわたしなりにクライエントとの共同作業に全力を注ぐこと、その結果としてのクライエント自身の力動的な変化、自己理解の促進、あるいは適応を通してクライエントが持つ力強さを経験してもらうことが、上に書いたような人達も含めて、専門職ではない同僚や優秀な後輩たちのクライエント理解のよき方法であると信じてやってきました。そして、クライエントのダイナミクスを阻害する要因として人間、障害、社会のあり方を見る帰納的、ボトムアップ的な方法論が、クライエントを置き去りにしない(つまり、わたしがgoodだと思う)仲間を増やす手段だと思ってきたのです。

 そのこと自体が間違っていたとまでは今のところ考えていません。ただ、こういう方法論はとにかくスケールしないのです。しかも、福祉の仕事を賃労働を含むビジネスだと思っている人にはなかなか伝わらないこともわかってきました。爾来なんとなく、芽の出ない種を蒔いて水をやっているような徒労感を感じてはいました。

 加えて、これは心理職の人たちとのコントラストからわかってきたことですが、福祉はニーズの急迫性に照らして支援を供給すること自体に社会的責任があると考えるようになりました。また、自分が承服しがたい支援を提供する事業者との付き合いを通じて、自分がよいと思うような形、責任を持てると言える形に支援を作り上げる暇を、福祉のニーズというものは待ってはいられないことが少なくない、ということです。そこへ行くと、わたしのやり方はなんと暢気なのだろう。しかも、今ひとつアウトカムも出ていない。

 一方で資本蓄積に邁進し、扇情的なやり方で寄付を募り、高じて公共セクターに食い込んでいくようなGreedを遺憾なく発揮することが、福祉の基本思想とはかなりの程度で相反する考え方にもかかわらず、特定の支援をスケールして社会にインパクトを与えるソーシャルアクションと言えそうではないかと思うのですよね。そもそも個人と個人のあいだの了解を数珠繋ぎにしていくような地道なやり方はどうあがいてもそういうGreedには追いつけないのに、Greedな人たちがスケールさせた支援がその何倍ものスピードと規模で界隈を席巻しようとしているように見えます。そして、その支援が曲がりなりにも福祉のニーズを満たしていたりするのですから、自分とて上述の口だけの人と何も変わらないじゃないかという気分にもなります。

 なんだか、自分がコツコツやってきたことがとても詮無いように感じられてきて、割と落ち込んでいます。ソーシャルワーカーたれと思ってここ何年も仕事をしてきたのに、自分は少しもソーシャルではなかったのかもしれません。ミクロとマクロはパラレルだと言ってはきたものの、実際に一人の人間の中で両者を扱い続けることはなんと難しいのでしょう。

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