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計見一雄から考える統合失調症の長期的経過

 新しいnote記事のために調べ物をしていて、読み返していた計見一雄先生(以下敬称略)が書いていたことがふと気にかかった。統合失調症の長期的な経過についての計見の主張は私の観測と直観に反していたので、これまでは長らくスルーしていたのだけど、改めて読み返してみると発見というか再発見というかがあった。いや不快感を安易に避けてたらあかんよねホント。辛抱して読んでみるものですわい。

計見一雄の統合失調症論

 本題に入る前に計見一雄の統合失調症に対する考えを簡単にまとめる。計見にはリンビックシステムの話とか感情の禁止とか示唆に富む話がゴロゴロ出てくるんだけど、例によって私の手に余るので本題に必要な最小限を私なりにまとめる。あと、計見は病名変更に一家言あるらしくてスキゾフレニアって言い方を好んで使ってるね。本稿では無難に統合失調症としますが。

 計見によれば、統合失調症の発病過程で、まず脳の上位中枢が弛緩して機能が低下、次いで上位中枢のコントロールを喪失した下位中枢が興奮するという序列関係を神経生理学の考え方から導いている。前者を陰性症状、後者を陽性症状として統合失調症に適用するこの考え方はエーの器質力動論によるものだという。彼に言わせればこの陰性症状こそが「とんでもない面倒くささ」として体験される統合失調症の本態で、「脳の行動計画が作れなくなる」とも言っている。
 これを精神病理学っぽいタームに置き換えると、まず陰性症状が出てきて日常の色々なことなうまくいかなくなる。最初はただの疑念だったものが、症状の進行とともに焦りや恐怖を伴ってきて、その不全感が陽性症状「幻覚妄想」によって説明されるようになる、という感じだろうか。
 ここに、神経可塑性に立脚した精神療法やある種の作業療法的アプローチを接続するのが計見流という感じ。器質因⇆心因と薬物療法⇆精神療法を対応させる考え方は心理療法家を中心に多く見られるけど、脳器質的な要因があってかつ精神療法的アプローチが有効だという考えを単独の論理体系内で両立させるところが計見のユニークな点だと思う。

陰性症状についての考え方

 さて、ここからは読み返しててもわかりにくいなと思ったのだけど、計見の論旨は、長期入院は陰性症状の増悪因子であって発生因子ではないということ。この点についての計見の批判はやや手垢がついたというかどの著作でもお決まりで、クロウとウィングが陰性症状の理解を歪曲したというもの。
 彼は、陽性症状やしばしば発症と認識される段階に前駆して陰性症状が始まるけど、速やかかつ適切に治療しないと陰性症状が遷延するよ、その最たる例が長期入院だよ、長期入院が陰性症状そのものを生み出すわけじゃないよと言っているわけだ。多分。
 また、前は神経発達障害仮説の立場だったように記憶してるんだけど、歳を経て統合失調症は誰でもかかり得るとして病因にはあまり具体的な言及をしなくなったみたい。この点はいみじくも彼が批判するDSMっぽさを感じてしまった。

陰性症状の長期的な経過についての考え方

 ある意味ここからが本題。計見の議論の魅力は語りつくせないけどそれは本稿の主題ではないんだな。
 
 計見は陰性症状が遷延する要因を示してはいるけれど、慢性かつ進行性といういわゆるクレペリン的な経過をたどるとは考えていない。ただ、『こころは内臓である』を読んでいると、完全治癒については前よりかなり控えめな考えになったようで、慢性という部分にはある程度コミットしているようだ。私が一番引っかかっていて、かつ書き残したかったのは、残る進行性の方の話。
 私の中では統合失調症の陰性症状は慢性かつ進行性という理解で、これはアカデミックな議論に依拠している主張では全然ない。勉強が足りないって言われればそれまでなんだけど、10年20年単位での長期的な経過を追った話は非医師にはブロイラー親子くらいまでさかのぼらないといけないくらい、言説にたどり着けない。知らないのか言わないのか区別がつかないよ!でもブロイラー(息子)の研究にしたって類統合失調症的な諸病態も全部ごちゃ混ぜだろうから斜に構えておいた方がいいんじゃないのって思っている。クレペリンとは反対方向のドグマを感じるんだよね。だから超長期的経過についてはアカデミックな議論はあまり追ってないし追えてない。現場の経験則を収集しているだけ。でも、現場的に重要な軽度知的障害、被虐待、高次脳機能障害などの見過ごされすぎている病態をきちんと鑑別した場合にあっては、加齢に伴って少しずつADLが低下していくとか、妄想の体系が少しずつ解体されていってスケール感も身近になっていくのに防衛としての妄想の出番が増えていくこととか、急性期からは相対的に薄らいでいく切迫感・恐怖感とか、統合失調症の慢性期にはほとんど共通の経過のように映る。統合失調症における陰性症状の進行は依然として避けがたい苦闘のように私には思えた。そんなわけで統合失調症が治癒するとかいう言説はもとより陰性症状が進行しないという理解に基づく話は今まであんまり考慮してこなかった。「倫理的にもあまり歓迎されないからみんな表立って言わないだけやろ!」くらいに考えていた。

 でも、「計見センセーのそういうところにはついていけないわー」とげんなりしながらも頑張って読んでいると、ふと考えると自分の記憶の中にも上記の経過を外れる人がいたことに気づいた。超長期入院を離脱して地域で生活する人たちの中に、一見すると陰性症状の進行が止まっていたかのように見える人は、確かにいるのだ。

 そんな彼らも、長い地域生活の中では少しずつ衰えていくだろう。それは人間に寿命がある限りは万人に共通のことだ。でももしかして、陰性症状の緩徐な進行のように見えていたものは、統合失調症の皮を被った老化にすぎないのではないかという考えが浮かんできた。陰性症状によって下方修正されただけで機能低下そのものは実は老化とparallelなのではあるまいか。慢性期におけるいびつな社会性は社会変動に取り残された中高年の社会性と何が違うのか。統合失調症に脚色された老化は陰性症状の進行と区別できるのか、或いはそれらをあえて区別する意味はあるのだろうか。「慢性かつ緩徐に進行する病」と「特徴的なところはあるが普遍的な老化」の区別がつかないとき、それをあえて前者の名前で語ることに大義はあるのだろうか。

ちっともわかりやすくない自作の図案。
青が計見的な統合失調症、橙が私の現場的統合失調症、黄が橙に対する反証。青と橙の差がそのまま増悪因子の影響で、最も望ましい治療と支援によって橙は青に漸近するのではないか、青の低下傾向は非病者と並行で老化と呼んで差し支えないのではないか、というのが本旨。

闘病する人たちにいかなる言葉を紡ぐのか

 この話、事実上生涯に渡る闘病を余儀なくされる彼らの、生きづらさや不具合、またその語りに対して私達支援者がいかなる言葉を返すのかという点で、実はとても重要ではないか!
 私自身は、本稿を書きながらこの不条理に対して、闘病の必然的な撤退局面よりも老化の名の方を与えたい誘惑に駆られる。これはただ、最も望ましい治療や支援が陰性症状の増悪因子をキレイに取り去ること、その上で長期的な機能低下が老化と呼んでよい程度に普遍的であること、という二重或いはそれ以上の要件を満たした場合に初めて可能性が開かれるような、しかも個人的な着想でしかないのだが。

おわり

参考文献
『統合失調症あるいは精神分裂病 精神医学の虚実』
『脳と人間ー大人のための精神病理学』
『急場のリアリティ 救急精神科の精神病理と精神療法』
『こころは内臓である スキゾフレニアを腑分けする』
(いずれも計見一雄著)


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