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「横田基地の周辺に"横田"という地名はない」という言説は誤情報

SNS上を中心に「横田基地の周辺に"横田"という地名はない」という主張がなされることがあります。また、この主張に基づいて「横田基地の名前は(拉致被害者の)横田めぐみさんに由来する」といった偽情報が拡散していることも確認されました。
本記事では、これらの言説を検証します。

結論:「横田」という地名が付近に存在しないというのは偽情報。
横田基地の名称の由来は、武蔵村山市の「横田」。戦時中に米軍がこの名称を採用し、終戦後も継続して使われるようになった。この地名は少なくとも江戸時代から存在し、1980年代まで地図に残っている。


横田基地の歴史と命名の経緯

横田基地は最初から米軍基地として作られたわけではありません。その起源は旧日本陸軍が1939年に建設を開始し、1940年に供用を開始した陸軍多摩飛行場に遡ります。後には陸軍航空審査部が使用するようになり、試作機のテストといった比較的機密レベルの高いフライトが行われる場所となりました。(出典:福生市資料米軍資料

「今昔マップ on the web」より
(1/25000拝島 昭和24年二修・昭和27.11.30発行 リスト番号:76-10-4-6)

その後、世の中は太平洋戦争に突入するのですが、ちょうどこの頃にはアメリカ軍のArmy Map Serviceが様々な情報を基に世界各地の地図を作成していました。なぜなら、地図は軍事作戦を展開するにあたって極めて重要だからです。もちろん、日本の地図も作成されました。

1944年の米軍地図では、陸軍多摩飛行場の場所は認識されているものの、"Airfield"(飛行場)とだけ記載されており、名称は記載されていません。ほかの飛行場、例えば立川飛行場などは名称が記載されているため、この時点では米軍が多摩飛行場の名前を確認できていなかったことが窺えます。また、名前のみでなく、当時の米軍は多摩飛行場が機密性の高いミッションを担っていたことを認識できていませんでした(米軍資料)。

Central Japan 1:250,000 Series L571, U.S. Army Map Service, 1943 を基に筆者が地名を強調

すべての飛行場は米軍にとって攻撃目標になりうる訳ですから、名称が定まっていないと不便です。そこで、識別のために米軍サイドで名前が付けられました。少なくとも1945年2月および1945年5月の資料にはYOKOTA AIRFIELDという名称が登場します。
これはフライトクルー向けの地図に登場していた近隣の地名「横田」を採用したものだとされています(米軍資料)。

Japanese airfields data, 16 February 1945より(国会図書館収蔵)
米国戦略爆撃調査団文書 ; 空襲目標情報より(国会図書館収蔵)

その後、日本は敗戦に伴って連合国軍の占領下に置かれます。この過程で1945年9月には陸軍多摩飛行場は米軍に接収され、名称も正式に横田基地(Yokota Airbase)となりました。

これが全体の概略ですが、本記事では補足としてもう少し掘り下げてみましょう。

補足

地名「横田」の歴史

現在の武蔵村山市にある「横田」の由来を辿ってみましょう。

基地の名前の由来になった「横田」という地名の歴史は、少なくとも江戸時代まで遡ることができます。明治新政府が編纂した「旧高旧領取調帳」には、江戸末期時点での全国の村名などが記録されています。国立歴史民俗博物館のデータベースから、武蔵国多摩郡横田村が存在していたことが確認できます。

旧高旧領取調帳データベースの検索結果

「横田村」の名前は明治時代に入ってもしばらく使われ続けますが、1908年(明治41年)の町村合併によって中藤村と合併し、自治体名としては消滅します。また、1917年にはこの中藤村もさらなる合併(町村組合の廃止)によって村山村に名前を改めます。
出典: 旧北多摩郡自治体変遷一覧武蔵村山市の歴史

しかし、自治体名として消滅したからといって、地名が消滅するわけではありません。大正10年(1921年)に測図された地図において、「村山村」内の地名として横田中藤、岸といった、合併前の村名が地名として残存しています。

「今昔マップ on the web」より加工。
(1/25000府中 大正10年測図・大正13.10.30発行 リスト番号:76-10-2-1)

その後、「横田」は昭和58年(1983年)の地図まで残り続けていることが確認できます。

「今昔マップ on the web」より加工。
(1/25000所沢 昭和58年修正・30955発行 リスト番号:76-10-1-15)

また、1980年代には正式な地名が武蔵村山市本町になったものの、2024年現在も立川バス・都営バスの停留所として「横田」の名前が残っています。

Google ストリートビューより(2024年8月撮影)

当時の米軍情報の精度

当時の技術や情報収集能力には限度があり、米軍の地図といえど数多くの誤りが残されています。
例えば、先ほどの資料を軽く眺めるだけでも、地名に関して以下のような誤りが含まれていることがわかります。

神奈川県の綱島(つなしま)が「つなじま」になっている
横須賀の別名として追浜(おっぱま)に「おいはま」という誤った読みが付け加えられている
Japanese airfields data, 16 February 1945(1945年2月の資料)より

横田めぐみさんと横田基地の関係は?

全くありません。これは上記の「横田基地の近くに横田という地名はない」という誤解に基づく偽情報です。

拉致被害者の横田めぐみさんは1964年に名古屋で生まれ、1977年に新潟で北朝鮮によって拉致されています(資料)。
前述の通り、基地は1945年時点で米軍によって「横田」と名付けられていたため、「横田基地は横田めぐみから名付けられた」という主張は前後関係が破綻しています。

結論

  • 「横田」という地名は少なくとも江戸時代からあった

  • 村名としての「横田村」は明治時代に消滅したが、地名は1980年代まで残った

  • 基地は日本軍の「多摩飛行場」として戦前に設立された

  • 太平洋戦争中、多摩飛行場の名前を知らなかった米軍が「横田基地」と名付けた

  • 終戦後、横田という名称のまま接収されて現在に至っている

横田基地に関連する誤情報については、こちらもご覧ください

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