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不労所得を得たいという若者への勝手な妄想

奥深くに眠っている自分自身を引っ張り出して、
「意識との対話」をしていく時間がとても大切だと思う。

「意識との対話」なんていうと大げさだけれど、
要は「自己発見」みたいなものだろう。

特に、「読んだり、書いたり」することは自分を客観的にみれる。

先日、28歳というITベンチャーの部長と話す機会があった。
といっても、初対面。簡単な仕事の打ち合わせ。

パリッと濃紺のスーツをまとって、同じく濃紺のマスクを上品にしている。一見、韓国ドラマに出てきそうな男性だった。

第一印象としては、とても若く見えて、
日々怒涛の如く、やってくる業務に対して、
スピーディにそつなくこなしている、敏腕営業マンといった感じだ。

仕事の話を一通りしたあとにひと段落。まだ若い彼に、なんとなく将来はどうしたいの?と尋ねてみた。

「不労所得を得たいです」とキッパリ。

あまりにも、間髪入れずにそう答えたので、少し驚いた。
初対面の僕に心を許したのか、軽いノリなのか、それとも常に“不労所得”への渇望を考えているのかわからない(笑)

きっと、不労所得を得た後には、何か特別な目的があるに違いない。なんて勝手に思った。

収入を気にせずに有り余る時間を得て、いよいよ自分の価値観に則った『好き』なことでもしたいのだろうと。

興味が出たので、更に軽く質問してみた。

「不労所得?」

すると、今度は一転して先ほどのスピード感は薄れ、少し間を空けて、こう言った。

「そうです。不動産投資をして不労所得を得たいんですよね」と。

「金持ち父さん・貧乏父さん」が愛読書なのかと一瞬思いながら、更に突っ込みたくなる。
28歳という若さを持った彼の素敵な絵画のような将来の夢をぜひとも聞きたい。

「それで、不労所得を得た後は、一体何がしたいの?」

きっと、何かやりたいことでもあるのだろう。期待して返事を待ってみる。

「それが、何も無いんですよね」・・という意外な返事。

とくに別段、何もやりたいこと、好きなことなどがないという。

夢や希望で満ちた、ワクワクするような、面白い何かを勝手に期待していたわけだが、「何も無い」というのは少し寂しく感じてしまった。

彼の中で不鮮明な何かわだかまっているような、もやもやしているものがあれば、少し聞いてみたいと次に聞くことを探し出す。あまり言いたくないことかもしれないけど。

「え!?、不労所得を得たら、好きなことなんてなんでもできるじゃない。何かあるでしょ?好きなこととか。ほんとにない?」

どう見えても健康そうな若い青年。
不労所得を得て、やりたいこと、好きなことなどが何もないのはあまりにも不自然すぎるように思ってしまう自分。

しかし、それは勝手な妄想にすぎなかった。

彼は淡々と語った。

特別にやりたいこともなく、そんなに自分はお金に執着しているわけでもなく、ただどうしても生きていくためにはお金は必要だから不労所得として収入さえあればいいという。

うんうん。言いたいことはよくわかる。うなずいてそのまま聞き続けた。

すると、こちらの相槌が心地よかったのか、少しづつ話し始めてくれた。生活に困らない不労所得を得た後は、ゲームが好きなのでゲームをやりながら過ごしたいらしい。

ようは、彼はゲーマーだった。

仕事でのテキパキとした手際の良さや段取り、そして聡明な話し方などはとてもスピードがある。

彼の中でまるでシューティングゲームでもしているかのような仕事ぶりに、サクッとイメージが重なってしまった。

まるでゲームで鍛えた「神経回路」が束になって戦闘脳となっているかのようだ。

“未来”という時間的特権を得ているイケメン独身男性の答えに、
別の何かを勝手に期待してしまっていた自分と、
別にいいじゃないか、淡々と不労所得を経て、
ゲームが好きならゲーマーになったっていいじゃん。と思う二人の自分がいた。

結果を出すために働き、元金を作って不動産投資をして不労所得を得るということ。
特別悪いことなのかというとそんなことは全然ないのだから。

しかし、
しかしだ。「ゲームする人生」、これが、なぜか、『もったいない』と感じてしまう。

2023年も半分近く過ぎてしまった、この現在。

“ウクライナ侵攻”“気象変動”“感染症”“インフレ”“芸能界の闇”などなど世界中が混迷を極めている。

未来は不透明で100年に一度、いや1000年に一度、起こるか起こらないかの「乱世」といった感は確かにある。

良いも悪いもなく、「ゲームする人生」、それはそれでよいのだろう。
本人がそうしたいというのだから。

こんな感じで若者の未来像をズバリ聞く昭和世代も少なくなったのかもしれない。
彼の表情は、はじめて質問したときにまるで鉄砲玉をくらった子犬のように虚をつかれた感じだったから。

しかし、なぜ、「もったいない」と自分は感じたのだろう。

社会的な観点からは、若者には教育やキャリアのために時間を有効に使うことが求められてきた。

しかし、ある種、貨幣経済を手のひらで転がして経済的成功を得た結果、ただ、ゲームをしていく未来に対して「もったいない」と感じてしまうのだ。

ゲームは娯楽やリラックスの手段として楽しむことができるが、それに対して具体的な成果や成長が得られないと感じることはこの先無いのだろうか?

そのときに彼は後悔して「もったいない」と思わないのだろうか。

それとも、これは、学習やスキルの向上が見込める活動に時間を費やすことに価値を感じてしまっている自分の一方的な物差しなのか。

彼がゲームをしている一方で、他の人がより生産的な活動(生きがい)に取り組んでいる様子を目にして、自身の時間の使い方に疑問を感じることが出てくるのではないか。

ほんの少しの時間に頭の中が余計なお世話で堂々巡りになってしまった。

そんなことを考えながらも、彼の話はつづいた。

SNSは盛んにやっている様子で、相手に「どう見せるのか?」と「映え」に関して流暢に語っていた。

まるでプラモデルの設計図を一つ一つ紐解いて説明しているような感じで。

SNSは個人が簡単に自分の“正義”だと認識できる装置として働く。

そして、見せ方というルッキズムが浸食している世界観は恐ろしいほどに彼の中でうごめいている感じだ。

待てよ・・・彼の「ゲームする人生」というのも、もしかしたら、本音では無いのかもしれない、ふとそう思った。

ただ、現在進行形のチラッとした迷いを言葉にしたくなかったのかもしれない。

「好きなこと、やりたいことが見つからない」そんな悩みを抱いている若い人たちは案外と多い。

そして、やりたいことをやるためには、やりたくないことをやらなければならない。

好きなことをするには好きでないことにも触れなければならない。

きっと、彼なら、そんなことわかっているだろう。

「好きなこと」や「やりたいこと」を望むより、もう、行動してしまった方が早いかもしれないなんてことは。

置き去りにされてしまった、
「努力」や「忍耐」そして、「根性」というものは、やりたいこと、好きな事と実はセットになっている。

「自分と向き合っているかどうか」

好きなことをし続けていくために、好きでないことをやっていく覚悟。
やりたいことを放さずに持ち続けていく半面、やりたくないことを受容する姿勢。

そんなことをイチイチ言葉になんかしたくない。

「ゲームする人生」

面白いじゃないか。

奥深くに眠っている自分自身を引っ張り出して、
「意識との対話」をしていく時間がたとえゲームでも。

毎日毎日、有り余る時間の中でゲームし続けていくことは、
嫌でも自分と向き合わなければならないだろう。

それは、覚悟のいることでもあります。

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