幼少期のこと

日常の中でふとしたことで、幼少期の辛かったことを思い出してしまう。
誰が見ても得をする話ではないことは重々承知しているが、それでも少し吐き出して自分の感情や記憶を整理したいと思う。長くなってしまうだろうから、少しずつ吐き出していきたい。

関西の田舎町で長女として生まれた私にとって、まず最初に悪かったことは私が女として生まれたことだ。母は男の子が欲しかった。そもそも母が私を産んだのは、現代で言うところの授かり婚だ。当時、私の父方の祖母はそれはそれは結婚に反対したそうだ。今となっては私も祖母の反対は母親として間違っていないと思う。母は家庭環境が影響してろくな教育も受けられず、水商売や低賃金の仕事で生活をしていた。母の兄弟もまともな者はおらず、妹である母の家に忍び込み、勝手に物やお金を盗んでいくような人達だった。もちろん母の性格にも問題はあったが、一見すると面倒見が良く礼儀正しい、明るい人に見えるのだ。母は家族に憧れがあったためか、私を産むことを決め祖母の反対を押し切り父と結婚した。私が生まれたばかりの頃の写真が並ぶアルバムのページには、母になった喜びや私への愛が綴られていた。

しかしながら、私が母にちゃんと愛されていたのだと思えるのは、そのアルバムの数ページしかない。私の記憶では、物心着いた頃には母からの暴言と暴力の絶えない日々だったからだ。私には1歳下の弟がいるが、弟には暴言や暴力はなかった。今考えても異常なほど、母の弟と私に対する扱いは大きな差があった。中でもはっきりと覚えているのは幼稚園の年長の時には、「あんたなんか産むんじゃなかった」と母に言われたことだ。私の記憶の限り、今までの人生で母に「死ねばいいのに」「産むんじゃなかった
」と言われたのは9回、そのうちの5回は小学校卒業までに言われた。これほどまでにはっきり覚えていることが自分でも不思議ではあるが、その言葉による心の傷はそれほど深かったのだろう。母はよく自分のしてきた苦労は、まるで世界で最も大きなことかのように語る。今年も自慢げに話してきたのだ。私が赤子の時、育児が辛くなりまだ首も座らないような私をベッドに投げ、父に打たれたと。普通、そんな話を聞いていい気持ちになる子どもはいないだろうし、少し考えればそんなことはわかるだろう。母は子どもを傷つけることよりも、自分の不幸話や苦労を自慢したいのだ。

父はどうかというと、私のことを今でも大切に愛してくれていると感じる。父は基本的に暴力や暴言をしない人だ。父に叱られた時は、「ばか」という言葉すら言われたこともない。子どもに感情的に怒鳴ったりしない人だ。私は今でも父が大好きだし、父に孝行をしたいと常に思っている。そんな父がなぜ母と結婚したのか、私は今でも疑問ではあるが、きっと母の態度が私に対するものと父の前で見せるものと全く違うからだろう。私の知る限り、父が激昂して手が出たのは、前述した首の座らない私を母が投げた時だけだ。

小学生の時、あまりにも母の暴言や暴力が辛くなり、父と2人の時に涙ながらにどんなことをされたのか父に話したことがある。父は静かに怒り、私を抱きしめてくれた。その日、母が家に帰ってくるや否や、父は私たち子どもを自室にやり、強い口調で母を問い詰めたが母は自分でも後悔している、反省していると涙を流し、私に謝って二度とそんなことはしないと宣言した。私はその日から暴力に怯えない生活ができると思っていたが、甘かった。それから数日して父が夜勤でいない夜に寝ていると息苦しくなり、目を覚ますと母が私に馬乗りになって私の首を絞めていた。私が起きたことに気づいた母は「よくもお父さんに話しやがったな」とひどい暴力を振るった。「次にお父さんに言ったら殺してやる」とまで言われたことは、小学生の子どもには大変な恐怖で、それから結局私は母から受けた暴言や暴力を今でも父に言えないままでいる。父がその後も母の暴力に気づけなかったのは、母は必ず服で隠れる部分に暴力を振るったこと、私と父は一緒にお風呂に入ることがなかったこと、母が私と弟に武術を習わせていたので私も弟も痣ができる環境だったことが原因だろう。それでも父は私にあれから母とはどうか、辛いことはないかとよく聞いてくれた。私は母への恐怖もあったが、父を悲しませたくなくて、何もないふりをし続けた。

世界中のひどい境遇にある子どもたちと比べれば、私の経験など大したことはない。それでも頭にこびりついて離れない辛い記憶や心を、私はずっと抱えたまま、隠したままで過ごしている。そしてふとした拍子にそれらの記憶、感情が思い出されて1人で辛い時間を過ごすこともある。今、私はあの頃の母と同じ年齢ではあるが、決して子どもを殴ろうとか蹴ろうとか投げ飛ばそうとか思ったことはない。まだ子どもを持っているわけではないから、我が子になるとまた違うのかもしれない。子どもが欲しいとは思うが、人は自分の受けた教育を繰り返すと言うから、私は自分が母のようになってしまうのではないかと思うと、子どもを持とうと思えなくなってしまう。

書いているうちに少し心が落ち着いてきたが、それでも記憶は消えない。ここに書いたのは私にとってほんの少しの記憶で、中学生の時には助けを求めた教師にちゃんと対応してもらえなかったことや、母のことで友達を失ったことなど、家庭外での辛さもあった。いずれまたどうしても頻繁に思い出すことがあれば、ここで吐き出すかもしれない。

何を言いたいのかわからない、とっ散らかった文章になってしまった。今の私は、私のような子どもをどうか1人でも減らすことができないだろうかと願わずにはいられない。大人になった私が大学生の頃から続けているのは、暴力に苦しむ子どもを少しでも減らす助けになればと、オレンジリボン運動に寄付をすることだ。


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