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自分の中に居場所をつくる


なりたい自分

「noteに書く」ことが嫌になってどれぐらい経つだろう。

私は日々、文章をイラスト化している。他の人の書いた文章で勝手にイラストを描いて自分のサインを書くことには正直、躊躇いがある。もちろんそれで収入を得ているわけではない。でも、依頼ではないのに人の文章をイラストにした物を堂々とサインをして公開はしにくい。だから、自分で文章を書くことにした。

なりたい自分…改めてnoteで文章を書くにはジャストタイミングなお題。
なりたい自分に対して色んな単語が出て来る。「全力、妥協しない、丁寧、穏やか、凛とした、きちんとした、気の利く」等。でもなんか全部違う。そうじゃない。

私は「文章をイラスト化することが仕事です」と言える自分になりたい。

なりたい自分

居場所がない

数年間、アカウントを転々としながらnoteを書き続けたけどやめてしまったのは、自分の居場所が分からなかったから。文章を書くプロが山ほどいて、専門家が知識や見識を披露する。そんな人たちの文章がもてはやされるここで「肩書きもないただの人」である私の内容もない自分の思いをただ書いていることが恥ずかしくなった。居場所がないと思った。
私はこれまでずっと社会に居場所がないと思い続けてきた。10~20代はずっと消えてしまいたいと思っていた。居場所がないのって苦しい。

私が言う「居場所」とは心の居場所。
学歴至上主義の親に育てられ「お前はバカだからコジキにしかなれない。物乞いして生きていけ」と言われていた。そんな私に社会に居場所があるとは思えなかった。小学校ではいわゆるロシアンルーレット無視の対象にされて、しばしばクラス中から無視をされて居場所がなかった。ロシアンルーレット無視とは、ある日学校に行ったら突然無視と嫌がらせが始まる。それが数か月続き、ある日突然ボス女子から「遊ぼ」と声をかけられ無視の対象が他の子へと移る。それが延々と繰り返される。次はいつ無視されるのか、次は誰なのかと毎日怯えながら生活するのだ。小学校という小さな社会にいる時からから安心できる居場所はなかった。
そこからずっとずっと、疎外感を感じながら生きてきた。

でも、この年齢になるとほとんど諦めが付く。私には社会に居場所はない。本当に諦めた。今の仕事でたくさんの人の仕事っぷりを見ることになったけれど、皆さん優秀なこと。そして自信に溢れている。そう…みなさん自信満々なんだよ。私は過去のこともあって同性が苦手。特に自信満々な同性が苦手。怖いのだ。やっぱりここも「居場所」じゃない。そう感じてとうとう諦めた。このまま一人でいいんだ。
それなのに、もしかしたら居場所は外ではなく内にあるのか?とまた居場所についての考えが出てきてしまった。社会や誰かが「ここにいなさい」って言ってくれるんじゃない。居場所は社会に作るんじゃない、自分で自分の中に作るんじゃないかと。自分の中に居場所があるから社会にいられるんじゃないか。
そんな事を考えた結果、私はなりたい自分になって自分の中に居場所を作ることにした。

居場所がない

苦手なSNSに勇気をもらう

「なりたい自分になって自分の中に居場所を作る」の思いに至るまでに社会に居場所を作ろうと小さな挑戦をしたことがある。
子供の時からものづくりが好きで、何かをつくっていると時間を忘れた。作り方通りに作るより自分で考えたり感じたことを形にするのが好き。それでイラストを描くことで社会に居場所を作ろうとした。
まず、グラレコ。音声を聞いて描く練習も100件はしたけれど向いてないと思った。どうもじっくり考えて描くタイプなので、リアルタイムに描き進めていくのが難しく感じた。だから、じっくり考えて描ける文章をイラスト化しようと思った。
だけど、やっていると何の役に立つのか、誰の役に立つのか、何の意味があるのか、もっと上手な人は山ほどいる…との思いが自分の中でぐるぐる渦巻いた。だから、2か月で50件程描いてやめてしまった。この程度で止めてしまうのにイラストを描くことは本当にやりたいことなのか?
私の人生、そんな風に3歩進んで4歩下がるをずっと続けてきたのだ。
でも最近、苦手なSNSで見かけた投稿にとても勇気づけられた。「何をやっても(立派な)先人がもうやっていると言われるが「自分がやるのは初めて」でいいじゃないか」的な内容。そうか、私は私の歴史を作ればいいんだ。何をやったって自分以上にできる人なんてたくさんいるのが当たり前。それと比べていたら自分の歴史は作れない。

そして「自分の中に居場所を作る」の思いに至った私は、自分の歴史を作るために「文章をイラスト化することが仕事です」と言える自分になると決めたのだ。
私にとって「文章をイラスト化することが仕事です」と言える自分になることが「自分の中に居場所を作る」ことに繋がる。

苦手なSNSに勇気をもらう

コーチの存在

本当にやりたいことなのか?意味があるのか?そんな思いを言い訳にこれまで何かをやることを決断しないできた。
それが、自分の中に居場所を作ることや自分の歴史を作ればいいと思えたこと、このnoteの企画をきっかけに決断し進み始めた気がする。

でも実は、最も大きい存在はコーチだと思っている。この一か月はコーチングを受けつつ本当にやりたい事や人生に向き合ってきた。ずっと社会に居場所がないと感じ、疎外感を感じ、一人でやってきたから、伴走してくれる人がいることがとても心強い。でもコーチという存在を自分のどこに置いたらいいのか今もよく分からない。いるようでいない、いないようでいる…

これまでの思考もホームワークをやる中でぽつりぽつりと出てきたものだ。そして「1か月で100個イラストを描く」というホームワーク、楽勝だと思ったけど怪しくなってきた。
今までイラストを描く中で「どうせ誰も見ないから」という思いがあり「もっとこうした方がいいな」を無視して楽に描いてきた。ホームワークで描いている時に何度もそんなことがあって「100%」で描かないことが癖になっていると気が付いた。どうせ描くなら数だけこなすのではなく「100%」で描こうと決めた。100個は厳しくなってきたけど、少しでも納得するイラストに近づけようと思う。
いつでも全力でやっていないと本番で全力は出せない。人生、いつが本番かなんて分からないし。

コーチの存在

可能性を伝えるために

具体的には、8月終わりまでに文章をイラスト化することを誰かのためにやる。その時点までには「文章をイラスト化することが仕事です」と周りの人に言う。

これが言える自分になることは、私の子供に影響すると思っている。私には息子と娘がいる。娘は現在中2で、学校に行けなくなって4年が経つ。最近になってたまに別室登校を午後からと部活だけには行けるようになっている。娘はとても勉強が苦手でどうしても手を付けようとしない。私も勉強が苦手だったので、最低限の勉強でいいと思っている。でも将来、自分で働いて稼いで生きて行かなければならない。そうした時に学校の勉強ができていない、高校も卒業していない…ではどうやって生きていくのか。私は勉強は最低限でいいと思いながらもそんな不安と苛立ちを持っていたりする。娘自身もこれからのことや社会に出ることを不安に感じているし、何もできることがないと思っている。なのに、私は機嫌が悪い時には「そんなのでどうやって生きていくつもり⁉」と酷い暴言を吐いてしまう。そんな自分が嫌だし、娘の可能性を本気で信じたい。

私が自分の本当にやりたい事、好きなことを「仕事です」と言えるのは、自分自身の可能性を信じられているから。自分の可能性を信じていないのに人の可能性を信じることなんてできない。「文章をイラスト化することが仕事です」と言える自分になることで、娘の将来の可能性を私が本気で信じ、娘にその可能性について説得力を持って伝えられる気がしている。もちろんそれは息子にも同じことが言える。

可能性を伝えるために

文章をイラスト化することが仕事です

「文章をイラスト化することが仕事です」と言える自分になりたい。
そう言えることで自分自身の中に居場所をつくり、社会にいることができるようになる。それを実現して、子供たち(特に娘に)何かしらの勇気を与えたい。もちろん、文章をイラスト化すること自体が誰かの役に立つことだとも信じている。

ここまで書いてきて、もう「文章をイラスト化することが仕事です」と言いたい気がしてきた。これからまだまだ進化します。
ご依頼おまちしております。

#なりたい自分

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