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アダム・スミス - 『道徳感情論』と『国富論』の世界 - を読む

豊かで強い国を目指す為、政府による市場への規制を撤廃し、競争を促進することで国の成長を高める経済戦略がある。その思想的背景としては、アダム・スミスの名が挙げられ、『国富論』はこのメッセージを補強するものとして援用される。しかし、自由放任主義者、急進的な規制緩和論者として語られるスミスのイメージについて、私は詳細な検討をしたことがない。そこで今回、堂目卓生氏の著書『アダム・スミス -「道徳感情論」と「国富論」の世界-』を起点に、人間本性の考察に立ち返り検討してみようと思う。

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アダム・スミス
画像出典:Wikipedia

まず、私たちは、利害関係がなくとも常に他人に関心を持ち、他人の感情や行為に共感しようとするが、他人もまた、私たちに関心を持ち、その感情や行為に共感してくれることを望む。しかし、すべての人から共感を得ることは難しい。そこで私たちは、成長と経験を重ね、「胸中に公平な観察者」を形成する。この公平な観察者は、常に私たちに公平な判断を与えてくれる存在である。時に世間の評価は偶然によって影響を受け、公平な観察者の評価とは異なることがある。私たちの中の「賢明さ」は、公平な観察者の賞賛を求め、非難を避けようとする。しかし、私たちの中の「弱さ」は、胸中の観察者の評価よりも世間の評価を重視し、自己欺瞞によって、公平な観察者の非難を無視しようとする。そこで、私たちの中の「賢明さ」は、胸中の観察者の賞賛を求めるように行動することを一般的諸規則として設定する。これが「義務」の感覚であり、正義に関しては、それを「法」として定式化する。法と義務の感覚によって、社会秩序は維持されるが、私たちの「弱さ」は、しばしば義務の感覚を弱め、私たちに法を犯させるため現実の社会秩序は完全なものにはならない。

私たちは、他人の歓喜に対しては喜んで共感するが、悲哀に対しては共感をためらう。歓喜への共感は私たちに快楽をもたらし、悲哀への共感は苦痛をもたらすからである。富や高い地位は私たちに歓喜をイメージさせ、貧困や低い地位は悲哀をイメージさせる。私たちの中の「弱さ」は、歓喜をイメージさせる富や高い地位を求め、悲哀をイメージさせる貧困や低い地位を避けようとする。本来最低水準の富さえあれば、それ以上の富の追加も私たちに幸福をもたらすものではない。しかし、私たちは富と地位の幻想にとらわれて「財産への道」を歩む。「財産への道」を進むことによって、社会全体の富は増大し、より多くの人間に生活必需品が分配される。一方、私たちの中の「賢明さ」は、徳と英知が真の幸福(心の平静)をもたらすことを知っており、「徳への道」をめざす。私たちは、「財産への道」を進む過程で徳と英知を身につけることができる。

ところがしばしば、「財産への道」は「徳への道」と矛盾することがある。このとき、「徳への道」を優先させ、フェア・プレーのルールに従えば、社会の秩序は維持され、社会は繁栄する。私たちがあくまでも「財産への道」を優先させ、フェア・プレーのルールを侵犯する時、社会の秩序は乱れる。社会の秩序と繁栄をもたらすものは、「徳への道」の追求と矛盾しない「財産への道」の追求、言い換えれば正義の感覚によって制御された野心と競争だけである。

上記展開を踏まえたうえで、以下いくつかの議論を展開したい。

第一に「市場」の成立に対するスミスの視点は非常に斬新なものである。市場は本来互恵の場であって競争の場ではないとスミスは主張する。虚偽・結託・強奪は市場から退去しなければならない。社会をなして生活する人間は常に他者からの共感を求める。「説得性向」と呼ばれるこの心理は、日常私たちが常に他人と言葉を交わす場面に見られる。相手に自分の感情、意思、意見を伝え相手の共感を得ようとする。他者が共感してくれれば喜び、共感を得られなければ失望する。私たちは他者からの共感を得るために、一生懸命言葉を伝える。説得性向は、他者からの共感を得ることを目的に、他者と言葉を交換しようとする人間の本性的性向なのである。

この説得性向に基づいて言葉を交換する関係ができれば、それを物との交換に展開することは容易い。私は、説得して自分の提案に共感してもらったうえで、相手の物を手に入れる。相手もまた同様である。両者が相手の提案に共感した時、はじめてそこに物の交換が成立する。「人はだれでも、生まれてから死ぬまで、生存のために他人からの世話を必要とする」「これらがすべて、愛情・感謝・友情・尊敬から与えられるならば、個人の人生は幸福になる」。しかし、人間は普遍的友情を持つことができない。そこで、自分の世話と見知らぬ人の世話を市場で交換する。例えば、「私はあなたが必要とする物をあなたにあげよう。その代わり私が必要とする物をあなたに求める」といった具合に。こうした説得に応じた交換は、自分への愛、すなわち自愛心にもとづくものであり、他者への愛情には基づいてはいない。しかし、生存を維持する方法としては有効である。そこでスミスは述べる、「交換とは、同感、説得性向、交換性向、そして自愛心という人間の性質に基づいて行われる互恵的行為である」。したがって市場は本来互恵の場であって、競争の場にはふさわしくないと。

第二に、市場においては無制限の利己心が放任されるべきだという考え方はスミスの思想からは決して出てこない。私たちは今一度スミスが利己心に基づいた自由な経済活動を容認したことの意味を正しくとらえなおす必要がある。自分の行為の基準として「一般諸規則」を考慮しなければならないという感覚を「義務の感覚」と呼ぶが、これをスミスは人類の行為を方向付ける最大重要性をもつ原理であるとする。義務の感覚が統制するものとしては、私たちが動物として本能的に持っている情念や欲望、それには自分の利益を第一に考えようとする「利己心」や「自愛心」も当然含まれる。私たちがどの程度まで本能的な欲望を解放してよいか、自分の利益を優先してよいかについては、常に一般的諸規則を顧慮しながら判断するのである。実際にスミスは「自然はわれわれを自愛心の妄想にすべて委ねてしまうことはなかった」と述べている。「利己心や自愛心は義務の感覚のもとに制御されなければならないし、通常は制御される」とスミスは考える。

第三に、「自然のもつ欺瞞」が経済を発展させ、社会を文明化する原動力になる、とする考え方をみてみよう。スミスは「経済を発展させるのは”弱い人”、あるいは私たちの中にある”弱さ”である」とする。「賢人」は最低水準を超える富の増加は幸福には影響しないと考える。しかし最低水準の富を持っていても、心の弱い人はより多くの富を獲得して、より幸福な人生を送ろうと考える。そのような野心は幻想でしかないが、これはよい意味での自然のもつ欺瞞である。「孤立して生活している場合には持たなかった野心、すなわち虚栄心を持つことによって、人間は勤勉に働き、技能を磨き、収入を節約する。その結果土地が開墾され、海洋が開発され、都市が建設される。自然への働きかけによって、より多くの生活必需品が生産され、より大きな人口を養うことができるようになる。」
たとえそれが地主のための奢侈品の生産ではあっても、同時に生産される生活必需品は、その生産に参加したより多くの社会構成員に分配され、その結果、貧困にある人の数を減らすことができる。このようにして、地主の利己心と貧欲によって幸福が人々の間に平等に分配される。『道徳感情論』において、この仕組みは『見えざる手』と呼んだ唯一の箇所である。

第四に、相互の共感を基礎とした社会は国内ばかりでなく、国家間でも有効に機能するだろうか。スミスは、祖国への愛は自然で適切なものであると説く。しかし時として祖国への愛は倒錯したものとなり、国民的偏見を生み出す。そして諸国の自由な貿易こそ、このような交際を広める重要な手段となると述べる。
人間は、まずは自分自身の幸福を願い、次に自分の家族、そして友人や知り合いの幸福を願う。この序列をスミスは「愛着」と呼ぶ。愛着は「慣行的共感」によって深まる。つまり、日常生活で特定の人びとと繰り返し共感しあうことによって共感は深まり、頻度が低下するにしたがって希薄になる。まずは家族、次に友人や隣人、そして知り合いなどに愛着を持ち、その人の幸福を増進することが自分の幸福であり、時にそれは自分自身を犠牲にしてよいとまで考える。これが「祖国への愛」に深まるまで時間はかからない。彼らの繁栄と安全は、ある程度、国家の繁栄と安全に依存するからである。

しかし私たちの胸中の観察者は、祖国のために命を捨てる行為を「愛着の転倒」であると見抜く。自分自身とまわりの人々に対する愛着は自然なものであるが、それを超える祖国への愛は不自然で倒錯的なものになりがちである。国家の間においては中立的な観察者が存在しないため、私たちは近隣国民の繁栄と勢力拡大を、悪意に満ちた嫉妬と羨望をもって見るようになる。その結果、自国民に対しては守られる正義の感覚が他国民に対しては守られなくなる。「愛する人々に影響を与える国家に対する愛着を超えて、国がそれ自体で価値をもつと思われるようになるとき、人は自国が隣国よりも、あらゆる点で優れていることを望む」のである。これが国民的偏見である。この環境を改善する方法として、相互の交際を深めることが挙げられる。それは第一で考察した市場の問題にかかわることでもあるが、諸国民間の自由な貿易こそ相互理解を深める手段ともなりうる。物の交換は、人と人との共感を前提にしなければ成り立たないからであり、また物の交換を繰り返すことによって人は取引相手をよりよく理解することができるからである。

以上四点にわたってスミスの道徳哲学を考察してきたが、グローバル化が進む中、リバタリアンをはじめとする冷徹な市場原理主義者の言説が支配する環境にあって、人間の交際する場を「市場」としてとらえたスミスの視点は温かい。愛国心をめぐる論考もまた明快である。本書を通じ、従来スミスに抱いていたイメージ、すなわち国家は常に経済発展のために、規制を撤廃し、利己心に基づいた競争を促進することによって高い成長率を実現し、豊かで強い国を作るべきだとするイメージは完全に覆った。


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