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完結しない場、ひとつひとつ。


不思議な感覚と共にいる今

すごい盛り上がりも、強いワクワク感もなく、でもそれでいてこれから起きてくるであろうことへの可能性とその広がりはなんかすごく感じている

今の心持ちを表すとしたらこんな感じかもしれない。

2021からはじめた場づくり講座もいよいよ6期目を迎えようとしている。
自然体で肩の力が抜けているんだけど、場づくりや場づくり講座の先に見えてきている世界に抱く期待感のようなものはどんどん膨らむ

でも無理に追い求めようという焦りや執着みたいなものはない。んっこれは最近よく観ている「葬送のフリーレン」の影響か?!

「葬送のフリーレン」の影響なのか…?

「葬送のフリーレン」を観ていると、この世界の無常と、日常の愛おしさと、意図しなくともこれまでと今とこれからはつながっているのだから、
何一つ無駄なこともなく、起きてくることはきっとすべてどれも大切な一つ一つ。ちょっとしたこともすごく大切で意味ある時間のように感じる。

そんな氣持ちになっている影響なのか、もともとの自分の性質なのか、この年末から年始にかけて、いくつかのキーワードが自分の前に現れ、それがメッセージのようにつながってゆくように感じる。

何がどう起きたかはここでは端折るが、「生きること」「アート」「命がよろこぶこと」そしてそれらが「場をつくること」とリンクしていくようなそんなことを感じている。(そんなことを思いながら年始に書いたブログの中にもいろいろ語ってみているので、よかったらこちらも読んでみてください)

場づくりの先に見てみたい世界

場づくり講座のガイダンスをさせてもらう時、必ず言っていることがある。
それは、わたし自身が場づくりをしていくその先に見てみたい世界は何か?ということ。それはわたしのメンターの一人である方が教えてくれた”世界平和の定義”のことば

子どもだけではなく、もちろん大人たちも、こんな風に生きることが出来たら、世界はもっとやさしく平和だよなって。

こう言っている時、その子はおそらくとっても満たされているのだと思う。よろこびを感じているんだと思う。きっとやさしい氣持ちにもなれるし、その感覚を誰かにもわかちあいたいと思っているのだと思う。そしてまた明日もそういう一日を過ごすことを信じて疑っていないのだと思う。

誰かをうらやみ、蔑み、様々な情報に翻弄されながら、満たされない何かを常に抱えているような、そしてそういうことに疲れてもうどうでもよくなって毎日が過ぎていくような、はたまたやり場のないエネルギーが互いを傷つけあうようなことに向けられてしまうような、そんな世界はやっぱり苦しい。

人と人とが関わりあいながら、そこで共に何かをしてゆくことが、「場」なのだとしたら、その場があることによって、またはその場に触れたことによって、自分の日常によろこびが増え、そしてそれゆえに満たされやさしい氣持ちが増え、より創造的になってゆくような、そんな場をつくりたいし、そんな場をつくることが出来る人が増えたらと思うと、静かにワクワクしてくる。

点描画のように

嫌なことや大変なことが何もない世界を望んでいるわけでもない。というかそれはそれで面白くない氣がする。感情は、自分の思いとは裏腹に起きてくる。やりたいと願うことがいつも出来るわけではないし、望むものはいつも手に入るわけではない。

まるで無作為に配られたカードのように、自分の前に何が起きてくるかはわからない。そう、人はいろいろわからないことだらけ。

でも、そういう日常の中に面白さを見出したり、そこに新たな視点や魅力を生み出せたり、そのプロセスを経てはじめて得られる感覚や境地に辿り着いたり。

ここ半年くらい、アボリジナルアートなどに見られる「点描画」にすごく魅せられているのだが、それもまたこの感覚を呼び起こしてくれているのかもしれない。

自作の1つ

たとえば日常の1つ1つの点を、つなげて流れで見てみる時、そこにはその人のヒストリーという名のストーリーが必ずある。そしてそれを誰かにわかちあってみることで、自分の1つ1つの点が、なんか実は「結構捨てなもんじゃない、いやそれどころかなかなかいい感じの物語になっている」ことに氣づく。

日常と、アートと、場と。

自分の日常の1つ1つの点そのものも、またそれらを表現することや、わかちあうことも、それを魅力的に彩っていくことも、それらはすべてアートとも言えるかもしれないってよく思う。

アート、あるいはアーティストとは?

自分の日常をアートのように見つめなおしてみることが出来るきっかけも、それをわかちあうよろこびを体験する機会も、そんな「場」があることによって可能になってゆく。そんな風に「場」があることの意味をここ最近、再確認している。

1つ1つの場も、言ってみれば小さな点だ。でもその点のような場は、すべてにつながっていて、そこで語られること、聴いたこと、わかちあい体験したこと、小さな点はすべて大きな絵につながっている

例えば誰かが語るそのストーリーが、別の誰かのストーリーに変化をもたらすきっかけになるかもしれない。それってすごいことなんじゃないか?

「この人生をもっと楽しんでみようと思う」そんな人たちがどんどん増えている。

本当は大切なのに、でも人の関心や興味が離れてしまっているようなものに新たな引力を与えてくれる。そんな力がアートにはあり、それは場によって増幅される。

場が持つ可能性
日常と、アートと、場と。

まとまらないまま、その先に行ってみる

書いていたら、なんかうまくこの思いをまとめることは難しいって感じにどんどんなっている。書けば書くほどイメージが広がってしまう。

だからまとめはしないでおこうと思う。このイメージの広がりをまとめないまま、もう少し先に進んでみようと思う。きっとこれから作り続けていくであろう場も、完結はせずにいつも何かが生成され続けていくのだろうから。

美術家の伊達伸明さんの詩の中にこんなことばがある。

未整理の過去と手探りの未来との間に点描でしか描けない現在がある

「鷲田清一さんの「素手のふるまい」という本の中で引用されていた詩より
伊達伸明さんの詩

過去がどういうものだったのか?それは観方が変わればいとも簡単に変わる。そして未来は可能性だ。今の一つ一つを描いていけば、それは必ず大きく美しく素晴らしい絵につながっている

「すべてはよきほうへ」

追伸:シューマッハー・カレッジへ

そうそう、縁あって今年サティシュクマールさんに会いに(というかプログラムに参加しに)シューマッハー・カレッジに行くことになった。

なんか、自分がつくりつづけてゆきたい場も、考え方も、その形も、サティシュクマールさんが語るものとすごく重なる感じがしている。

またそこでの体験も、「場」を通してみんなにわかちあいたいな。


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