映画「21世紀の資本」(ネタバレあり)
映画「21世紀の資本」観ました。もうその分厚さに読み切ることを半ばあきらめ「まんがでわかるシーリーズ」を読むにとどまっていたものが、なんと映画で103分!(あっでもまんがでわかるシリーズは個人的にすごいと思ってます。エッセンスを掴むのには私にはとっても合ってる!)
きっかけは、フェイスブックで武井浩三さんが投稿していた記事を見かけたことがきっかけ。
特に引用されていた、この部分にとても惹かれたんです。
「でも、単に『社会を変えよう』と声を上げるだけでは何も起こりません。社会を変えたかったら、いまの経済システムの代わりに、どんなシステムを作るのかを言わなければなりません」
「私的所有権をどのように考え直すのか。会社の経営をどのように変えるのか。GDPの最大化に代わる経済の目標を何にするのか。そういったことを具体的に言っていかなければ、現在のシステムを乗り越えていけません」
この新型コロナの影響によって、「日常」と思われていた様々なことが、あっさりと奪われていくかのような感覚になる中、やはり多くの方が言うように、今までの延長線上ではない、本当に望ましい生き方、あり方(それは個としても社会としても)を見つめ直すタイミングなんだと。
そんなこんなで、映画を見つつ思ったところを少し😊
ネタバレ風なところがあるかもなので、これから観る方は、そこを踏まえて読んだり読まなかったりしてください(笑)
『r>g』
前提として、ピケティさんは『r>g』資本収益率>経済成長率を提唱していて、これはかなり平たく言えば、どんなに頑張って働いても、お金持ちになるのは結局資本を持っている人だよねってこと。
過去のさまざまな事象やデータ、自分の実感を踏まえると、今の資本主義構造はまあそうだよなって思います。そして、それは富(ここではお金とそれによって行使できる様々な力という意味合い)の格差を生み出す構造です。
ただし、この「構造」自体が必ずしも格差や様々な不均衡や不平等を生むとも限らないのではないか?というのが私の考えです。では、何が格差や不均衡、不平等を生むのか?
それは”人の意識=幸せに生きるあり方をどう捉えるか?”というところに紐付いてくるのではないかと思うんです。
この構造が格差を生むのは、“持てるものが持ち過ぎて、さらにもっと持とうとする”からであり、“持っているものを手放そうとしない”から。
持っているかいないかの違いだけなのに・・・
なぜそうなのか?
一つには不安や怖れがあり、そしてまた一つには優越感、自己有用感に起因するところもあるのではないか?
映画の中で、思わず「あ〜っ…」と嘆息してしまったシーンがある。
それは、あるボードゲームの実験で金持ち役と貧乏役をつくるというもの。2つの役の違いは、金持ち役は振れるサイコロが2つ。貧乏役が1つ。ただこれだけ。やることは何も変わらない。
しかし2つ振れることで、得られるもの量が1つの人の倍になる。繰り返すほどその格差は広がっていく。
ゲームが進むにつれて、サイコロ2つの金持ち役の態度が大きくなり、サイコロ1つの貧乏役を見下すような発言や態度が出てきたりする。声もアクションも大きくなっていく。貧乏役はだんだん肩身が狭くなったり卑屈になっていったりする。何度人を変えて何度この実験をしても、同じ状況が起きるそうなんです。。。
たまたま金持ち役になった人は、たまたま割当てられ、たまたまサイコロを2つもってゲームがスタートしただけなのに…です。
”誤解”がつくる現実
r>gの中で、富を持つものは、人より多く資本を持っている。そして必ずしもそれは実力ではなく、生まれた国や地域や家、周りの環境、関わる人などなど、運良くたまたまそうだということも多い。
特に富裕層は、その資本を引き継いだことでスタート時点で富をかなり持っていたりもします。
映画の中では、富を持つもののほとんどが、”この状態は自分の実力や努力によって生まれた”と言うと語られていました。
もちろん、その人たちが努力をしてないわけでないし、実力もあると思う。そこは真っ向否定するつもりもない。
しかし怖いのは、同時に富の少ないものは努力や実力が足りないとか、富が欲しければ努力して実力をつければよいのにそれをしていないからだという視点が生まれてしまうことです。
誤解からの見下しや、誤解からの劣等感が生まれ、そうであるかの様な現実をつくりだしてしまう…そしてそれは憎しみや怒り、さらには行き着くところ、暴力の正当化、権力の暴走などを生んでいく。
世界中にある争いの根源には、この構造が根深くあると私は見ています。
SDGs・貧困・格差
またSDGsの様な取組が十分に進んでいかない構造もここにあるように感じます。
富がある状態は物理的にも精神的にも心地よく優越的で手放すことは惜しくなる。やがて怖くなる。その生活や日常が変わることを望まない。(ここはすごく自戒を込めて…そこまで富があるわけではないけど、日常の何かを変えることを躊躇する自分にはすごく思い当たります…)
仮に頭では、世界から格差がなくなったほうがよいと理解していても、自分が変わる前提はそこにはない(もしくは弱い)。
そればかりではない。富を持つものが「まだまだもっともっと」となり、持たざるものが「自分も持ちたい」となり、この構造のカラクリを知らぬまま、各々がその望みのままに突き進んだら、地球環境はますます悪化の一途を辿り、格差はますます進む。
世界はこのまま格差増大の社会になっていくんだろうか? 地球はさらなる“無理”を人間によって強いられるんだろうか?
テクノロジーがこの状態にイノベーションを起こしてくれるという期待とも幻想とも信念ともつかない空気感が現代にはあるように感じます。
テクノロジーが格差を解消し、環境改善に大きなインパクトを与えていくという可能性は否定しない。むしろ私もそれを期待する1人です。
しかし、この資本主義の構造のカラクリを知り、人が陥る意識のワナに気づき、人の幸せに生きるあり方の捉え方がかわらなければ、結局はそのテクノロジーもまた、格差を生む装置になってしまうという虚しさも感じる。
「四方よしの働き方、生き方」の探求
さて、だいぶ冗長な文章になったが、あらためてそんな世界に希望を見出すためには何が必要なのだろう?
私は、真の『四方よしの働き方、生き方』を、出来るだけ多くの人と対話しわかちあい探究していきたいと思っています。
四方よしは、近江商人の三方よし(自分よし、相手よし、世間(社会)よし)の教えのアレンジ版で、自分よし相手よし社会よし地球よしというコンセプト。
この探求を通じて、幸せに生きるあり方とは何なのか?を対話しわかちあい試してみることをしたい。それを拡げていきたい。
自分にはまだ十分な知恵もアイデアもない。すぐ安きに流れる弱さもむちゃくちゃある(自信もって言うことじゃないけど😓)
その答えを見出そうと対話するプロセスそのものが、自分の意識や行動を変えるきっかけになる。
だからこそ一緒に考えわかちあい行動する仲間が必要で、「ねばならない」という悲壮感からでなく、あっそれいいね!それならやりたいという「ワクワク感」でそれをしたい。なぜなら、続けていくためには「やりたいからやる」という動機が絶対必要だから。
このテーマはまさに、Visionary Workのコンセプトでもある。
さて、何をしよう。誰と分かち合おう。
しかし一本の映画には、ここまで思考を展開させる力がある。やっぱり映画ってすごいな〜🎬 映画つくる人マジで尊敬する。
最後にもう1つ
「私的所有権をどのように考え直すのか。会社の経営をどのように変えるのか。GDPの最大化に代わる経済の目標を何にするのか。そういったことを具体的に言っていかなければ、現在のシステムを乗り越えていけません」
このピケティさんの言葉を見たときに、私には思い浮かぶ企業が4つある。
・タラブックス
・佰食屋
・ブルネロクチネリ
・たねや
こうした、「新しい時代の会社」のあり方というものを、一緒に考えて、実践してみる実験もまたどんどんやっていきたいなってすごく思っています。
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