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その先に、「暮らすと働くと学ぶと遊ぶ」が1つになったような場をイメージするようになっていった


この2年が生み出している現実の変化


場づくり講座をはじめてちょうど2年が経とうとしている

縁あってこの場を共にしてくれた人たちは、根っこの深いところで同じような願いを共有している仲間なんだよなって本当に思っている

みんながそれぞれのフィールドで、「いい感じの場」をひらきながら、その半径5mがどんどん拡がっていったら、そこには可能性をひらくエネルギーが放たれて交わされて染みわたって、そこにいる人たちの希望に変換されていって、それが動く力にかわってゆく。

そんなことが生まれたらいいなと思っていたが、現実に今それが生まれていることを感じられているシーンが増えていて、それがとっても嬉しい

とはいえ世界の広さからすれば、まだまだそれは小さな点でしかないのかもしれない。そうかもしれないけれど、でもそれでいい。

いや、「それでいい」というより「それがいい」のだ。

小さいことの意味


人は「結果への期待」がある時、その実現の難しさを強く感じてしまった時にモチベーションを失ってしまったり、希望を見失ってしまったり、意味を見出せず虚しくなってしまったりもする

もちろん、そこを超えてゆく強さでその状況に力を振り絞ることも出来るし、そういう素晴らしい先人たちもいるが、そこにはかなりの苦しさや重さがやっぱり伴うようにも感じる

可能であれば、もっと「今ここにあるよろこびと可能性」を感じながら、氣がついたら期待していた結果に近づいたり、それが叶っているような感じがいい。

今いる場所、今関わっている人たち、自分の目と手が届く感覚があるサイズ感、その連続。そこをいい感じにしていくことにフォーカスして、実際にそれをして、今ここにあるよろこびと可能性を少しずつ増やしていく。それを感じられるサイズ感やペースでいるってとても大事なんだよなって思う

(前に、場づくりの話ではないけど、このサイズ感やペースのこと書いたnote記事)


外側ではなく内側にもっと触れてみる


閉塞感や無力感の中で、外に目を向けていろいろなことを知っていけばいくほど、その絡まったいろんな”がっかり”に反応的になっていく自分がいて、やり場のない憤りや悲しみのようなものや、それを見越したかのようにつくられた怒りのやり場に意識が”ガ~ッ”と向いてしまったりもする。

誹謗中傷や、あり得ないと感じるような振舞いや、そこにまた攻撃の刃が向いて、分断された考えが反応の応酬を繰り返してゆくようなシーンを目の当たりにしたりすると、そこに不毛さを感じながら、またどんどん”がっかり”していく

しかしそんな反応している自分の内側に目を向けた時、そのがっかりの奥のほうに、「本当はこうあってほしいんだよ」っていう”願い”があることに氣づく。

それは相手にこうなってほしいとか、自分がこうなりたいとか、そういう次元ではなく、自他の境界がそこにはあまりなく、「こんな世界を見てみたい、味わってみたい」というようなニュアンスだったりもする。

それは、わたし自身が体感していることでもある。

そして”がっかり”に反応して、”がっかり”のエネルギーから何かを生み出していくのではなく、この”願い”のエネルギーから何かを生み出していくという感じにシフトしていくって、ほんとに大事だよねってすごく思う

まず自分がそのあり方を選んでみる。
そして、そのエネルギーで自分の周囲半径5mの場にまず関わってゆく

自分の好きなことで場をひらいてもいいし、今いる場の中でそういう意識と言葉で関わっていくことをしてもいい、周りがそうなったらそうするというリアクションじゃなくて、まず自分がそうある、そうしてみたいからするという感覚で。

あ~、やっぱりこっちのほうがいいな~ってすごく思う。同時に世界は観方がつくっているって再認識する瞬間でもある。


自分自身の現在地を確認してみて見えてきたもの


そんな風に場に関わり、自ら場づくりをし、そして場づくり講座をしてきた自分の現在地を、今年のはじめにちょっと確認してみた

そんな中で、自分はどうやら「暮らすと働くと学ぶと遊ぶ」が一体になったような場をつくっていきたいんだということに氣がついた。いや前からそうだったと思うのだけど、あらためて言葉にしてみることでその実感が強くなった

とはいえ、それは「計画的」にやるものというより、日々アップデートされながら「生成されていく」ような場であるとも感じている。

そんな場が生成されていくと、たとえば今の学校で閉塞感と無力感を感じている子どもたちに、新たな選択肢となるだろうし、今の職場や働き方に閉塞感と無力感を感じているおとな達に、新たな選択肢になる

孤独感や孤立感を感じている人たちが、つながりの実感を感じられるような場にもなるし、かといって義務感のような関わらなければならないプレッシャーの元で関わらなくてもいい。一人でいたい時は一人でいられる。

自由を尊重してくれる間柄だからこそ、互いに関わって何かをしてあげたくなる氣持ちも自然にわいてきやすくなる

人と関わる時、自分が譲ったり、がまんしたり、ちょっと氣乗りしないことをやることもあるかもしれないけれど、それすらそんなに嫌じゃないと感じられるような関係性がそこにはある。それは本当に苦しかったら、「ちょっとそれを休んでいいんだよ」っていう空氣感がそこにはあるからこそ。

ここに訪れた人が、自らもその場のつくり手となって、いろいろ試していくことで、「暮らすと働くと学ぶと遊ぶ」が1つになったような場は、日々アップデートされてゆく

場づくり講座は、私なりのコミュニケーション手段の1つなんだと思う


よく言われることではあるが、わたしがひらく場づくり講座は、ノウハウとしての場づくりを学ぶ場であると同時に、いやそれ以上に自分を見つめてゆく時間になっている。(よかったらアンケートコメント見てみてください※共有了承済みのものです) 

そして、それは参加してくれたみんなの中に起きていると同時に、わたし自身にも起きている。

「場づくり」というものの中に、何か希望のようなものがあるんじゃないかって感じている人はぜひ来てほしい。自分の中にあるWhyを確かめたい人はぜひ来てほしい。

日々関わり合う様々なシーンは、すべて”場”なんだと思う。そこをいい感じにできるって本当に希望だし、人生の豊かさやウェルビーングに密接にかかわっていることなんだって思う。

場づくりというものを、そういう観点で捉えていけるのだとしたら、それは自分の命の時間を使って、探究し学び続けていくに値するものだよなって思う。

そしてわたしはそういうことを来てくれるみんなと分かち合い、それによって、一人ひとりが関わる場がいい感じなってゆくシーンを、見てみたいのだと思う

また9月からはじまる「場づくり講座5期」で出会える人たちと、わかちあいたいことはいっぱいあるな~


これまでの場づくりについてのnote

これまでの「場づくり」についてのnoteもぜひよかったら読んでみてくださいね。変遷の記録。


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