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2015「転換」その①

起業したての頃の感覚

前回、2009~2013頃の自分の転機について書いてみた。

あの記事同様、今回も・・・長い・・・。なのでまた10分くらいまとまった時間がとれる時に・・・ぜひ読んでみてください。

2013年に起業した私は、それまでの17年に渡る企業勤めとは、まるで違うリズムで生き働くことになった。
  
よく、「思い切ったね~」とか「大変じゃなかった?」とか「覚悟が出来てたんだよね~」みたいなことを言われるのだが、自分の実感としては正直どの言葉もあまり当てはまらない。
  
特に2013年起業直後は、もう解放感とワクワク感しかなかった。あっという間に曜日感覚は無くなるし、自分のペースをつくりやすいし、そうしたいと思ったらすぐできるし(お金がすごくかかるものは別として…)、とにかく”自由度”が幸福感と直結しているような感覚だった。

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2つのマイルール

この時に決めていたことが2つある。

「自分が本当に意味があると思えることしかやらない」
「かけてもかけなくてもいいお金はかけず、意味を感じたらドンと使う」

この2つのおかげで(せいで?)、起業直後にすぐに舞い込んだ100万円の案件をいきなり断ることになり、事務所は無くお気に入りのカフェをはしごするノマドな毎日だったのだが、これだけはブラさなかった。(とはいえ”意味”の範囲は広いので、そんなに断りまくるみたいなことはなかったけれど…)

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これは、今でもそうだが、ここでいう“意味”は、私にとっては一人でも多くの人がVisionaryWorkをして生きることに繋がり、その先に誰かも世の中も何なら地球もHappyになっていく方向に向かっていると感じられるかどうか。この一文につきる。
  
この旗印のようなものは、私はすごく大事にしている。もしかしたら、やがてこれすらも掲げず流れのままに生きるかもしれないが、今はやっぱり大事にしたいとは思っている。
  
これがあることで、いろいろな執着が消える。言うなれば「流される方向だけ決めて流される」ような感覚で、大きな意味でそっちの方向に行っているんだったら何やってもいい、ただし自分を活かして楽しめることならね。という感じ。

これまであえて触れてこなかった学び

さて、タイトルは2015「転換」だ。この『北の国から』の様なタイトルにつながる話に戻そう。

『北の国から』は倉本聰原作で1981年にスタートしたドラマだ。圧倒的な自然と人間への深い洞察が折り重なった名作だと私は思う・・・。
  
・・・違う、そうじゃない!!話を戻そう。

2015年は、私の中でも大きな転換の年だったように思う。この年の出会い、学び、それは今まで私が触れていなかった(あえて触れてこなかった)ものだった。

起業して2年がたち、自由な中で進みたい方向に進んでいる感覚は、あるにはあるのだが、何かが足りないような感じもしていた。そんな感覚が自分に新たな扉を開かせたのかもしれない。
  
中でも自分のメンタルモデル、精神構造を紐解きながらそこに向き合った体験はとても大きかった。(メンタルモデルについてはみーちゃんの著書のHPぜひ見てみてください)

また他にも、

強すぎるコントロールパワーを手放していくこと
達成への盲目的執着からの解放
体験の一つひとつを大切に味わうことの喜び
予定調和を手放すことで見えてくる偶発性を楽しむキャリア感
いつもの自分なら選ばないようなものを選んでみる選択から扉を開く…etc

といったような感覚が自分の中で大きくなっていた年でもあった。

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強引な誘い

さて、そんな転換の1つのきっかけは友人のやや強引な誘いだった。
その友人は、ほぼ同世代でいわゆるバリバリのエリート的な道を捨てて、新たな価値観での生き方・働き方をしていた。

その彼が、仲間と新しい学びのプログラムをはじめるという。これからの時代を担う様々なセクター(企業・NPO・活動家・教育etc.)のリーダーに、今までとは全く異なるパラダイムを身につけてもらうもの。半年間で基本合宿(5~6回くらいかな)で、価格は100万円だという!
  
さすがに、どんな成果が得られるかも未知数な学びに、まだポンと100万円払うほどの経済的余裕もなく、最初は断った。
  
でも、その友人はこう切り出した。「そしたら、うーさん(友人は私のことをそう呼ぶ)が出せるだけでいいよ。とにかくうーさんに参加してもらうことに意味があるので」
  
「?!」
  
んっどういうことだ?と思った。その友人はそういう類の押しはしてこないタイプだったので、それが意外すぎて「?!」ってなった。
  
もちろん、その友人のことは信頼しているが、正直参加する気は最初のアプローチではそこまでなかった。本当に可能性がないものは引っぱっても失礼なので、その場で断るほうなのだが、でもなぜかこの時は「ちょっと考えたい」と思った。
  
直感が「これは行ったほうがいいんじゃない?」と告げていた。
  
そして、かな~りディスカウントをしてもらい、結局参加することにしたのだ。そう、これがまさに起業後に訪れた大きなturning pointだった。

「あり方」のアップデート

その学びは、一言で言うなれば「あり方」のアップデートだった。
いわゆる「やり方」例えばノウハウ・スキル・ビジネスモデルなどHOWを学ぶようなこととは違うWHYに向き合う学び。

☆未来デザイン Being-Doing-Visionsa-CIRCLE

このプログラムの雰囲気は、超リラックスな感じで、誰もテーブルとイスにしっかり座ってなんかしない。寝っ転がったり、歩き回ったり、ほんとに自由だった。
  
強制感が面白いくらいに無く、たとえばこういう場は”眠くなる=よろしくないこと”となることがほとんどだが、ここでは「眠いということは、おそらく潜在意識がそれを拒んでいるという表れだから、それが何かを探ってみよう」みたいなスタンスなのだ(笑)  
  
ただただ、自分語りをして、1泊2日の合宿が終わることもある。プログラムの大きな意図はあっても、細かなスケジュールが何もないのだ。
  
「?!?!?!」
   
ただ緩くはあるが軽くはない。なんだこれは!と思いつつ、こういうのを自分は本当は望んでいたんだ。という気持ちもあった。

自分のメンタルモデルに向き合う

それは、ある合宿の時だった。今も仲のよい友人でもある、みーちゃんこと由佐美加子さんがメインのプログラムで、参加者全員のメンタルモデルを扱うというものだった。
  
人には自分の思考や感情を生み出し、行動を規定している無自覚なOSのようなものがある。そのOSは小さいころからの様々な体験によって、自分や世界の見方を規定していく。そしてほぼ無自覚な状態で自分の中に存在し、自分の思考や感情を自分の意思とは関係なく勝手に生み出していくという。それがメンタルモデルのメカニズムだ。

一人1.5時間くらい、合計で10人以上。自分の番ではない時は他の人とみーちゃんの対話を聴いているのだ。(実はこの対話を聴くというのがむちゃくちゃ内省が深まる)
  
そして、自分の番がくる。他の人の対話を聴きながらそのパワフルさに触れていた。自分がもっている無自覚なメンタルモデル、それを手放すことを怖れ拒んでいる。そのことを自覚し自分の中にある認めたくない自分像を受け入れることで生まれる、解放された様子は、うらやましくさえあった。

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その解放感を期待しつつも、自分の番になるとどうも勝手が違う。さきほど人の時にはよく見えていたメンタルモデルの構造が、自分のこととなると、まるで見えない。いや見ることを拒んでいる、人前にさらすことを怖れている。それを認めた瞬間に自分が無能で恥ずかしい存在だということを認めてしまうような感覚が、自分をとどめてしまう・・・

みーちゃん(以下み):「うーさんさ、こんな自分が暴かれてしまったら、もう自分は破滅してしまうとすら思ってるような自分を言葉にしてみるとどんな感じ?」

と、サバサバ(その時はそう見えた(笑))と問うみーちゃんに少し気圧されながら言葉にしてみる。
  
:「他には?」「う~んそれじゃないような気がするな…」「もっとあるでしょ」
  
観念した私は「本当は無能で、それが暴かれたら自分を保てないくらい恥ずかしい感じがして、、ゴニョゴニョ…△〇%&?」と言う。
  
「うーさんってさ、ほんと無能だよね」
  
:「?!?!?!?!?!?!」

:「・・・って言われたらどんな感じがする?」
  
:「怒りとか恥ずかしさとか抵抗できなくなる感じとか・・・」

:「あ~それかもね、無能で恥ずかしい存在
  
まあ、こんなやり取りが続いたわけです。そしてう~んと唸っている私にみーちゃんはさらに問いかけます。

:「うーさんさ、これって真実なの?
  
そう問われた私はとまどいます。正直暴かれたくなかったけど、本当の自分はそこまで能力もないし、でもそれを認めたくないから、拒否したいけど、でもこの後に及んで、もう暴かれてしまったし…
  
:「う~ん…認めたくないけど…真実…かな」
  
というと、なぜか周りで見ている人はクスクス笑いだす始末・・・みーちゃんを見るとなぜかみーちゃんも笑っている。

:「うーさんさ、じゃあどこまでいったら無能じゃなくなるの?
  
:「どこまで?!、、、う~んどこまでも…?!どこまでだ??」
そう言いながら私はハッとします。これって誰が決めてるんだろう?自分、相手、はたまた第三者、権威etc. でもどれも勝手に線引きしているだけで、無能と有能をわける境界線の絶対的定義があるわけじゃない。そんな絶対的定義も何もない、ただそれぞれの見方によって生み出されているだけの物差しじゃないか?!
  
たぶん、ハッとしながら私の表情が変わっていたのだろう?
    
:「そうだよね。そんなのさ誰もわからないよね。だからそもそも真実じゃなく、うーさんや他の誰かが勝手に生み出している観念でしかない。今、周りで見てたみんなはそれがわかってたから、クスクス笑ってたでしょ。うーさんは別に無能でも恥ずかしい存在でもないのに、自分だけがそれに囚われていたからね。他の人のことだとよく見えるんだよね~(笑)」

確かにそうだった。わたしも、他の人の対話の時には、「そんなことに囚われなくって大丈夫なのに、、、」って思って見ていた。そして自分の時も同じような状態に見事になっていた。
  
他の人からみたらたわいもなく感じることも、本人の中では人生の大問題であり恐怖の源なのだ…。
  
みーちゃんは、その構造を概念図の様な形でホワイトボードに描きながら、説明してくれた。

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:「こうやってね、その構造が俯瞰できるとわかるでしょ。いかに自分が真実でもない観念=メンタルモデルに囚われてしまうかが。でもねそれは自分の中では絶対的な真実になって、そしてほぼ無自覚なままでいる。だから、パターンが生まれるんだよね。いつもなんかこうなっちゃう。こういう時にいつもこういう状況に陥ってしまう。みたいなね。人によっては、関わる相手を責めるし、また時には自分を責めたり、自己正当化したりする。心の中で相手を見下して留飲を下げたりとかもする。」
  
もうこの時は、本当に目から鱗が落ちまくっていた。

:「真実ではないけど、そう思ってしまうのは、自分を守るため、痛みを味わわなくてよい様にする自分の免疫反応だよね。だからメンタルモデルは、うーさんを守ってくれたんだよ。だからそのことに感謝して、そんな観念が自分の中にあることを許して受け入れてあげる。その上で自分はどういう自分を選択していきたいかを決めていきる。この無能で恥ずかしい存在を、ありたい姿に言い換えるとどんな言葉になる?」

:「ん~・・・有能で誇らしい存在・・・かな?」

:「OK、では自分で言ってみて」

:「有能で誇らしい存在」

:「言って見てどう?」

:「まだちょっと恥ずかしい感じがするけど、なんかいい感じ」

:「そうだよね(笑)ここまでずっと抱えてきてるからね~ 一旦ここまでにしようか。素晴らしいね、ありがとう!」

構造とそのメカニズムを知るということ

これまで、自分の中で自分にブレーキをかけてしまう何かがあるのはわかっていた。そしてそれを超えるための、自分の中でのアプローチも自分なりにはいくつか持っていた。
  
でも、それはメンタルモデルという構造がわかってたわけではなく、経験則から自分がたまたまうまくブレーキを外すことができた時のことを、自論として持っていただけだった。

この構造とメカニズムがわかってから、本当に自分や関わる人への見方が変わり、そして世界の見方が変わった。

例えるなら、今まではリモコンのスイッチを押せばテレビが点くことは知ってはいたが、この学び以後はテレビの構造とメカニズムが見えてきた感じ。

それが分かると「こうすれば解像度が上がるよな」とか、「故障したらどう対処すればいいか」もわかる様になる。

このメンタルモデルによって自分自身を制限してしまっているのが人間。
そして人間はその奥に純粋な願いや素晴らしい可能性も必ず持っている。

この新たな見方によって、今までストレスフルな状況と感じていたものが、ほとんどストレスを感じることがなくなったのだ。代わりに好奇心が生まれた。
  
そして、より純粋な内なる願いを体現することに、まっすぐに向き合えるような感覚になった。
  
VisionaryWorkを生きるために必要なことは、この3つの探求だと思っている

Who am I(私は何者として)
Vision(何を成し生きるのか)
Fear(私を阻む怖れは何か)

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このうち、2つは2009年ごろからずっと探求をして、自分を生きるアクセルに間違いなくなっていたのだが、ここに来てもう1つ大切な踏んでいるブレーキの扱い方の探求が始まったのだ。

この人間や、人間同士の関係性、そしてその集合体である組織の内面の構造やシステムに興味がどんどん湧いていき、U理論、サイコシンセシス、禅、システム思考、NVC、アイデンティティ構造の探求etc.などの学びを深めていった。

また西さん(西村佳哲さん)が開催しているインタビューワークショップで「聴く・訊く」ことの深淵に触れたことも大きかった。他の学びとも相まって、ここを境におそらく私の「聴く・訊く」の質は大きく変わったと思う。
  
言うなれば、発している言葉の意味よりもその奥や周りにある何かを聴き、その奥や周りにあるものの正体を訊くような感覚になったと思う。

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それ以降、自分が提供している個人セッションも、場をつくりファシリテーションも、対話の深さが今までとはまるで違う実感があった。

自分自身のあり方とやり方のアップデート

対話の技術を知り、自分や相手の内側のメカニズムを知ると、”見えないものの流れ”や”そこにある感情”をあるがままに感じ、そして同時に囚われなくもなっていった
  
これは、相手や場の空気に飲まれることなく、でもそこに耳を傾けることが出来るようになる感覚で、相手や場に今まで感じていたストレスやそこから生じる緊張がどんどん無くなっていった。
  
もし私だけでなく、多くの人がこの感覚でいられたら、本当に自分が実現したいと思うことに踏み出せるし、気楽に挑めるメンタリティになる人が増える。より深い人間理解から愛のあるマネジメントが出来る人も増えるし、関係性に悩む人も減っていく。

「Visionary Workをして生きる人がどんどん増えていくじゃん!」

こうして、私は、自分のセッションやプログラムに、これらの学びのエッセンスをどんどん取り込み、新たなVisionaryWorkDesignのセッションやワークショップが次々と生まれていった。こうして私にとって2015年は「転換」の年になっていったのでした。

Connecting Dots

転換は、思わぬところからやってくる。それはいつかはわからないが必ずくる。思考でグルグル考えた結果がNOでも、直観がYESという時がある。まあ後づけの意味づけかもしれないけれど、これは多くの人が言っているから、きっとそうなんだと思う(笑) 

そしてそれらが、ある時にババババッとつながるような時がある。
まさにConnecting Dots(点と点がつながる)だ。
  
ここまで、読んでくださって本当にありがとうございます。この体験が、誰かの何かを開くきかっけになることを願いつつ、私自身の旅はまだ続いていきます。そして共に旅することがあればぜひ一緒に冒険しましょう

おまけの宣伝

そうそう、このメンタルモデル的なものへの向き合いは、私の書いた『相手を巻き込む伝え方』の第4章あたりの内容ともリンクしてくる部分が少しあるので、もしよかったら見てみてください~






  

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