今女は画れり
冉求曰わく、子の道を説ばざるに非ず、力足らざればなり、と。子曰く、力足らざる者は中道にして廃す。今女は画れり。
冉求日、非不説子之道。力不足也。子曰、力不足者、中道而廃
(雍也第六)
冉求が「先生の考えに不満で実行しないということではありません。私が力不足なのです」と言ったところ、孔子先生は「力不足の者は、途中でやめてしまう。今お前は自分の力は足りないと限定してしまっているじゃないか」と答えました。
孔門十哲
論語には、孔子と弟子の対話のやりとりが多く記されています。
ここでは冉求というお弟子さんとの対話です。
(場面によっては、冉有とも冉子とも呼ばれています)
冉求は孔門十哲の一人のお弟子さんで、政事に長け、大変に頭の良い方でした。そのため、先を見過ぎてしまうところがあったのかもしれません。
他者評価より自己評価
スタメンになれないとか、トレセンに落ちたとか、他者が決めた評価で自信を掴むのは間違っています。
もちろん結果は大切ではあるものの、合格とか、勝ったとか負けたとか、試合に出たとか出ないとか、それだけを観て一喜一憂してしまうことはあってはなりません。
確かにスポーツは時にシビアであり、多くの人はその結果だけを目にします。そこまでのプロセスを知る者はほんの一握りです。ただそのプロセスの全貌を知る者に「自分」が含まれます。
自分自身には嘘をつけないため、自身の積み上げが全てを物語ます。それを確かな自信にするべきでしょう。
私も選手としては大成しませんでしたが、誰よりも早く練習に来て、誰よりも遅くまでボールを蹴ること、そして誰にも負けなかったたくさん走ることを自信としていました。
指導者になった今は、どんなに忙しい時もトレーニング計画として「指導案」と、またゲームで起きたこと・選手に言ったことを記入する「ゲームレポート」を書くことを指導者になってからこれまで22年間継続しています。
それができなくなったら指導者を辞めようと、自らに課しています。
その継続してきたファイルもまた、私の指導者としての自信にもなっています。
求道心を燃やす
自分で自身の能力に見限りをつけ、自分は駄目だと思い込んでいるのは、まだ求める心が本気でないからと言えます。
好きではじめたこと、続けていることにも、もちろん壁もあるし、困難もあります。
ずっとずっとサッカーを行うことが正解だとも思っていません。
自らに限りをつけず、納得するまでやることの経験が、自身の力となるのだと思っています。
求道心を最大限に燃やし、自分が信じられる試みを続けていきたいものです。
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