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ウクライナの土と戦争

動機

『大地の五億年』刊行にあわせて、ウクライナの土と戦争についての記事を書きました(ヤマケイオンライン、中日新聞)。実は、以前から記事はあったのですが、ロシア資本の流れるメディアでは大きく扱ってもらえず、言論の不自由を痛感しました。また、ウクライナに関する情報は軍事や戦況ばかり。「なぜ、ウクライナなのか?」という議論が欠落していように感じています。土の研究者としても情報を提供すべきと考えて執筆いたしました。

絵本ブーム

書店の絵本コーナーでは、ウクライナ民話『てぶくろ』、ロシア民話『おおきなかぶ』が並んでいます。実は、私の地味なツイートから始まりました。この時点ではまだ侵略は始まっておらず、何とかならないかと思って日本語と英語でツイートしました。福音館書店のためにしたことではありません。

もしも「いい仕事するじゃないか」と思ってくださった書店員の皆さん、店頭、いや、どこか隅っこに『大地の五億年』も置いてやってください。

近いロシア、遠いウクライナ

ロシアは近い国です。野球のバットや家具は今もロシア木材に依存しています。冷涼な気候条件、土壌から養分供給の少ないロシアでは年輪が細かく、反発の強い木が育ちます。北米の木材が日本に届かないウッド・ショックにあって、経済制裁下の今もロシアの木材に大きく依存しています。大型貨物船による交易は制限されていますが、中小の交易は今も盛んです。一方、ウクライナとの直接的なつながりは乏しく、皮肉にも戦争で注目を集めました。とくに、肥沃な土の存在と小麦の輸出量についてです。ウクライナは、「欧州で最も貧しい国の一つでありながら、最も豊かな土がある」といわれてきました。

とびきり肥沃なチェルノーゼム

テレビでは政治的・軍事的な話が主体ですが、ウクライナの問題は土なしに語れません。それは、ウクライナがとびきり肥沃な土、チェルノーゼム(チェルノは黒い、ゼムは土の意)を有するためです。

チェルノーゼム

土の皇帝・チェルノーゼム

肥沃な土の分布を表す地図を見ると、紫色のもっとも濃い地域は、現在戦禍に見舞われているウクライナです。チェルノーゼムは陸地面積の7%を占めます。ウクライナ国土の6割をチェルノーゼムが占めます。日本にはまったく存在しませんが、世界のチェルノーゼムの3割がウクライナに集中しています。チェルノーゼムは日本の黒ボク土と見た目は似ていますが、日本の土は酸性、チェルノーゼムは中性です。中性だと、栄養分(リン)がアルミニウム害がないという利点があります。

世界の肥沃な畑マップ

狙われる肥沃な土

チェルノーゼムは、ウクライナなど東欧、北米プレーリー、パンパ、中国東北部に広く分布しています。草原下にできる黒い土であり、かつて氷河期に風で肥沃な土が堆積した場所です。ウクライナ首都(キーウ)の年平均気温は12℃(=仙台)、年降水量は約650ミリメートル(日本の降水量約1700ミリメートル/年の半分以下)。ウクライナ西部は『てぶくろ』の舞台にもなる森林ステップ(森林と草原がパッチ状)と東部の草原の広がるステップがあります。

風によって砂塵が堆積した場所がチェルノーゼムの条件の一つ

なぜ土は黒くなるのか?

降水量は夏に増加するものの、植物による蒸散や蒸発が活発化するため、夏の土はむしろ乾燥します。冬は寒く、夏は乾燥することで微生物の分解活動が抑制されるため、植物遺体はゆっくり分解し、黒い腐植が多く集積します。さらに、中性の土ではミミズが活発で、それを食べるプレーリードッグ、ジリスが深くまで土を混ぜてくれます。フカフカした黒い土が局在する背景には、こうした1万年の営みがあります。そこを畑にすると小麦の大穀倉地帯となりました。ウクライナが「ヨーロッパのパンかご」と呼ばれる小麦の大産地になったのは、チェルノーゼムの賜物です。

リチャードソン・ジリス

土は選べない

土の違いは、食糧生産力に厳然たる格差をもたらします。ウクライナをはじめとするチェルノーゼム地帯を中心に、世界の肥沃な畑の分布する陸地面積のたった11パーセントで世界人口の8割、60億人分の食糧が生産されています。第二次世界大戦中、ナチスドイツ軍は土を貨車に積んで持ち帰ろうとしたといいます。ドイツは慢性的な食糧難に苦しんでいました。ロシア国土の大部分は永久凍土と酸性土壌(泥炭やポドゾルなど)を占めます。ロシア民話『おおきなかぶ』には、一粒のかぶを大切に育てる貧しい農民と厳しい自然環境が見てとれます。ロシア国内でも、ウクライナ近くの黒海周辺はチェルノーゼムが分布し、最も豊かな農場となっています。侵略戦争を引き起こす動機はいつも、土と食料(と水とエネルギー)です。となりの土は黒く見えるのです

戦争の原因

ロシアの場合、石油・天然ガスからのエネルギーシフト後の産業が充分に育っていません。かつてのスターリン、今のプーチンともにウクライナを”植民地”化しようとしたのは、食糧とその生産基盤である肥沃な土は人間がいる限り安定した資源でだからです。かつての日本が国内の黒ぼく土に手を焼き、中国東北部(満州)のチェルノーゼムを併合したのも同じ行動原理でした。

世界人口が増え続ける中、世界の農地面積は頭打ちです。肥沃な土を劣化させている場合ではありません。戦争とは、人道に悖るとともに、環境負荷の極めて大きい破壊行為です。砲弾には大量の重金属(鉛、ニッケル、亜鉛など)が使われており、いったん汚染されると、土の除染は容易ではありません。同じウクライナのチェルノブイリ原発事故の汚染地域のようになってしまいます。肥沃な土を求める侵略行為のリスクは、その土地の土との付き合いを知らない人々が新たに入植して過去の失敗を繰り返すことです。どんなに土が肥沃でも、その強みと弱みを知らなければ、うまく使いこなすことはできません。ウクライナの人々が土壌保全を配慮しながら農業のできる日常が戻ることをチェルノーゼムは静かに待っています。

戦場のチェルノーゼム(Horea Cacovean博士提供)

もう少し詳しく知りたい方は以下の書籍をご覧ください。


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