見出し画像

噓日記 5/8 音と言葉

最近の若者は、なんて言葉を使いたくなかった。
ただ、若者とチャットをする機会があり、そんな先人たちが苦し紛れに吐いた言葉に深く賛同してしまう。
若者よ、言葉を大切にしておくれ。
もちろん私も全ての言葉に気を配り、美しい言葉・正しい言葉を使えているわけではないが、少なくとも言葉に対して真摯であろうという気概は常に持ち続けている。
というのも、チャットで会話した彼女は本来、一応と入力するべきところを何故か"いちよう"と何度も入力する。
他にも、店員という言葉を"定員"と誤る。
前後の言葉の繋がりから恐らく一応や店員だということは推測できるのだが、どうしても一度引っかかる。
初めのうちはミスタイプかと思っていたのだが、それも複数回間違えられるうちに彼女が間違えて覚えていることを悟った。
では何故そんな誤りが起こるのだろうか。
それはひとえに文字情報ではなく音としてそれらを捉えているからだろう。
一応がいちように聞こえた、店員が定員に聞こえた、そんな経験が私にないわけではない。
ただ、私は間違えない。
その漢字に含まれる意味が分かるから。
そして聞いたままの、音としての言葉に疑問を抱けるから。
しかし、彼女にはそのステップがないのだ。
確かに、昔に比べて娯楽が増えた現代ではかつてほど文章という面倒なものに向き合う時間をわざわざ作る人間は減ったのかもしれない。
動画配信サービスなどが増え、受動的に受け取れる情報が万人に届いてしまう時代になったからこそ、そこで素養のないものにもその情報の上澄が届いてしまう。
あえてもう一度記しておこう。
若者よ、言葉を大切にしておくれ。
私たち、君たちが使う言葉とは先人たちが築き上げ、整え、洗練された文化の輝きなのだ。
言葉とは常に変化を続ける。
しかしながら、一応はいちようにならないし、店員は定員にならない。
そこに意味が乗っていないから。
若者よ、書を捨てるな。
書を捨てて町に出る前に、一度でいいから素晴らしい文章に出会っておくれ。
読んだ瞬間に背中の肌が粟立つような、そんな感動を知っておくれ。
そうすればいつの間にか自分がそんな素敵な何かを生みたくなる、発したくなる、そして届けたくなる。
そこでやっと人間は言葉を愛し、守り、真摯であろうという自覚を得ることができる。
若者よ、言葉を愛せ。
チャットをしていた彼女にも、マッチングアプリのチャットでこのことは伝えなければならないと思っている。
会ってから言おうと思う。
会いたい。
愛し合いたい。
Gカップの黒ギャルらしいし。

どりゃあ!