噓日記 4/27 自転車に乗りたい春

自転車に乗りたい。
最近日増しにそう思うことが増えたように感じる。
自転車など学生時代に自動車免許を取得して、それまで乗っていた自転車を処分して以来もう十余年は乗っていないだろう。
その当時はアクセルを踏み込めば勝手に動き出す車に乗る術を手に入れたのもあり、必死こいてペダルを回す自転車とそれに跨る人間が酷く愚かしく思えた。
しかし今、その自転車に乗りたくてたまらないのだ。
自分の足でペダルを回して、自分の体でバランスを取る、そんな自転車に乗る仕草が懐かしく思えて仕方がない。
私はなぜ、こうも自転車に乗りたいのだろう。
理由はおそらく単純だ。
きっと、実感が欲しいのだ。
自らが動かしたままに車輪が轍を刻み、息を切らすまま開けてゆく視界の終着点を風と共に左右に分けて進むあの感覚にもう一度浸りたい。
転べば怪我をするし、遠くに行けば疲れてしまう、そんな身体のパーツをブラッシュアップした程度の、自動車と比較すると小さな人類の進歩を追体験したい。
私の両の腕の延長線にある、私という何者かが残ったままに前に進んでゆきたい。
私は自己同一性の所在に、闇雲にペダルを回す中、無心で出会いたいのだ。
いつの間にか私は大人になってしまった。
誰から見ても大人だ。
私自身が客観視してもどこからどう見ても大人なのだ。
だから、迷う。
自分が何者かになる前に大人になってしまったのではないかと。
実感のないままに上がっていく立場や抱える責任はもはや霧の中に立っているように奥行きを持たず、もはや私には認識できないほどに膨れ上がっている。
だからといって、実感がないからとその立場から逃げ出すことも出来ず、実感がないままに大人であることを全うしようとしてしまう。
だからこそ、今。
私は自転車に乗りたい。
私をただの通行人に落としてくれて、見える形で私の命を預かる小さな車体で私は実感したいのだ。
ここにいる私という人間を。
社会が与える役割ではなく、純粋な人間として、まるで幼子のように生きることを望むだけの欲の塊としての私を。
そして思うがままにペダルを漕ぎ出し、行くあてもないままに汗を流して、知らない場所を知った場所に変え続け、流れる空気の塊をタイヤで切り裂いて、ふと漕ぐのをやめる。
そこに流れる爽やかな風の中で、自分を改めて知りたい。
できることならばそこで全ての自分を知り、自分の後に残る道程に立ち返るのか、それともここで立ち止まるのか、そんな選択肢を与えて欲しい。
悩んで悩んで悩んで、その先で死にたい。

どりゃあ!