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噓日記 5/31 本屋にて

本屋に行く時、私はしばしば無鉄砲になる。
名前も聞いたことがない作家の作品や、表紙が綺麗な作品、タイトルが気になった作品を必要以上に考え込まずに買ってしまう。
もちろん、その結果イマイチ私には合わない作品とも多く出会ってきた。
だがしかし、私はこの買い方を長い間繰り返してきたのだ。
もともとは、自らが望むパーツを持ちうる作品を読み、吸収し、その好悪を判別することで自分の好きという気持ちをより明確にし、その好きと感じさせる何かを見つけるためのエリアを絞ることができると思っての振る舞いだった。
その作業を何度も何度も繰り返すことで私の好きが溢れた桃源郷へと私は誘われる。
はずだった。
しかし、それは全くもって間違いだったのだ。
この作業を繰り返す度に、私は新たな好きに出会ってしまう。
好きは最初から持ち合わせたものではなく、拡大していくものだったのだ。
好みというものは持ち合わせて生まれてくるのではなかった。
生まれてきて、様々なものに触れ、そしてそれを好きになっていく。
私はこの買い方を繰り返すことで、それに気付き、図らずも好きに囲まれた生活ができるようになったのだ。
昔は何故か毛嫌いしていた詩集も読んでみたら捉え方を考察する余地のあるミステリーのような楽しみ方もできるし、苦手な恋愛小説も読み方によっては心理的な表現を学ぶ教本になり得ると気付けたのだ。
私はこの買い方を重ねることで、学び続けていたのである。
本は作者自身の生きる上での論理が描かれている、と私は考えている。
顔も知らぬ誰かの人生哲学に触れることで、私の人生哲学を知らず知らずに補強し、私という存在の外殻を固めてくれるのだ。
自己と周りの差を明確に自覚するために本は存在しているとさえ感じる。
だから今日も何かを学び取るために私は本屋に行った。
タイトルに惹かれた本を適当に選び、レジへと並ぶ。
この本を読み、私はまた知らない私の好きに出会うのだ。
今日は間違いなく私の知らない世界を知ろうと思い絵本を買ってみた。
もう何年も読んでいない絵本、今読むことでまた新しい自分と出会うことができるだろう。
買って帰った本を肴に酒を飲む。
涙が出た。
絵本だと侮り、自らを遠ざけていた私が恥ずかしい。
買って帰った本のタイトルは『もいもい』という。
あまりにも素晴らしかったためネットの情報を集めてみたところ、赤ちゃんの目を釘付けにする絵本として有名らしい。
誰が赤ちゃんじゃ。
でも母乳を飲みたいという部分では私も赤ちゃんなのかもしれない。
ちゃんと殺してくれな?

どりゃあ!