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噓日記 4/18 情報を与えない理由

情報を与えられない立場に立つということに関して私と齟齬がある人間と出会った。
仕事の上で情報が共有されないことは問題がある。
しかし、情報を与えられない人間というものは少なからず存在するのだ。
私の働く会社にもいる。
情報が与えられないということは即ち、信用がないということなのだ。
その人間に情報を与える必要がない、情報を与えても意味がない、なんならマイナスになり得るという風に発信元から思われているということなのだ。
情報は財産だ。
知る人が増えるたびにその資産は目減りしていく。
会社という大きな共同体において、その流出のリスクを孕んだ者には情報は与えられない。
つまり、その者は会社からも社員からも、リスクとしてカウントされているということだ。
今朝、会社で情報が与えられていないことに憤る社員がいた。
その情報自体、当人には何ら関係のないことであり、その話を彼にしないという決定は我々が独断で行った。
社内のフローとしてなんら問題がない。
しかし、彼は憤った。
共同体の中で、疎外されたような意識が芽生えたようだ。
しかし、違う。
普段の身の振り方、仕事への取り組み方、人との関係性の築き方。
そういったものの積み重ねを観測し、そのうえで彼の不安定さや危うさに、彼より上位の社員は気付いたから、そのフローから外れたのだ。
そこで憤っていては外れた理由が、より明確に我々の目に現れるだけなのだ。
彼に出来ることはただ、誠実であること。
それだけなのだ。
誠実に身を振り、誠実に取り組み、誠実に築く。
それを重ねて、周囲に見せることしかできないのだ。
共同体において全ての個性は必ずしも迎合されない。
我々はそれに気付かなければならない立場にある。
怒り、語気を強める彼を見て、共に仕事をする仲間はそれを信頼できるだろうか。
いや、できない。
だからそうなんだよ、そう思われるのが関の山だ。
残酷な物言いになるが、彼は恐らく数年以内に退職するだろう。
社会人としての戦い方とは時にダーティで、時にクリーンである必要がある。
皆が皆、使い分けて、その仮面をつけ外す。
そして、それをお互いが行っていることに対して、認識しながらも見て見ぬふりをするのだ。
それができなかった彼はきっとこの先もその公然の事実から目を逸らすのだろう。
気付いていてもできないのだろう。
この問題について、私は私が正しいとは思っていない。
彼が正しいとも思わない。
そういう社会が正しいとも、思わない。

どりゃあ!