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噓日記 4/21 キャッチボール

キャッチボールが苦手だ。
ボールを投げ合うという単純な動作の繰り返しに私の脳は拒否反応を示す。
キャッチボールといえば、相手の胸元に向かってボールを投げ、相手はそれをキャッチしてこちらに投げ返す。
それをまたこちらがキャッチして、また投げ返す。
はっきりと疑問を呈しておく。
何が面白い?
人間は動物の中で唯一オーバースローで物が投げられると昔見たテレビで言っていた。
たしか大江裕が言っていた。
だが、改めて考えてみたい。
そろそろ飽きてもいいんじゃないか?
まだ自分の体の可動域を確かめて悦に入ることがまかり通っているのが甚だ疑問でならない。
そんなに確かめなくても肩はちゃんと回る。
我々は上から物が投げられるのだ。
その人間に備わった基本機能を確かめて、物を投げ、取り、それを繰り返す。
少なくとも二人の人間を巻き込んで肩をグルグルと回しているだけのことを、我々はキャッチボールと呼ぶのだ。
遺憾、誠に遺憾だ。
基本機能を何故疑う?
多少左右に失投したとしてもその程度のブレを愉快だとは思えない。
我々はそろそろキャッチボールをやめるべきじゃなかろうか?
また、キャッチボールという言葉の弊害にも苦言を呈しておきたい。
キャッチボールはコミュニケーションの比喩としても用いられている。
相手に言葉を投げかけ、相手はそれを受け取り、それに見合った言葉を返す。
なるほど、言葉をボールに見立てたのならばキャッチボールと動きは同じだ。
しかし、それも体を動かしてするキャッチボールと同じく人間の基本機能を確かめているに過ぎないのだ。
大丈夫、確かめなくても我々はちゃんと通じ合える。
言葉がなくても人は人と通じ合えるのだ。
我々の言葉は機能を確認するためのツールになっていないだろうか?
ここまで書いておいてなんだが、そういった意味では私はコミュニケーションが苦手かもしれない。
そもそも、何かが苦手な理由をつらつらと書き殴るような異常者がコミュニケーションが得意なわけがないのだが。
もしかすると私の思うキャッチボールは他者と認識がズレているのではないかとここにきて不安になってきた。
言葉がなかったから通じ合えてなかったのかもしれない。
小手先で自分の自意識をこねくり回してそれを他者に披露する、それが私の、私なりのコミュニケーションだと思っていた。
それはもしかしたら誤りだったのかもしれない。
他者のコミュニケーションがキャッチボールだとすると、私のはさながらお手玉だ。
お手玉は好きだ。
私はおばあちゃん子だったから。

どりゃあ!