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噓日記 7/18 拳という単位

拳という単位についてかねてより疑問があった。
拳一つ分という、まぁいい加減な大きさを表す表現が常態化している事については今更槍玉に挙げるほど狭量ではない。
大抵の人間の拳の大きさなど誤差こそあれどイメージとして既に市民権を得ているものだ。
その拳を元にした大きさの表現についてだが、最近はよく赤子の拳という表現をよく目にする。
まだ拳大という表現と比較すると一般化していない表現だが、小さくもそれなりに存在感があるものを表現する際に使われているように見受けられる。
これらの拳で表現される、比較されるモノは往々にして何処か熱を持っているのは私の気のせいだろうか。
拳大の唐揚げや拳大の雹のようなそのまま温度感を表すものであったり、拳大のボールや拳大の壁の穴のような何処か情熱の行く当てを表現する際に使われることが多い気がする。
どちらの表現も人間の持つ熱、とりわけ体のパーツとして、人体を構成する一部としての拳の体温との対比が自然とそのシチュエーションと合致しやすいような印象を持っている。
さて、ここで先ほどの表現としての拳大、赤子の拳大を思い出してほしい。
そう、爺の拳大という表現が存在しないのだ。
爺になっても拳の大きさは変化しにくいとかいうユーモアのかけらもない溜飲の下ろし方はしたくない。
前述のような熱の言説から爺に体温がないのだとかいう失礼な物言いもしたくない。
それ以外に自分を納得させる方便を拵えておきたいのだ。
私はこの爺の拳大という語彙が存在しないことを論語より紐解いていく。
論語では齢40にして不惑、つまり惑わなくなり、齢50にして知命、つまり天命を知り、齢60にして耳順、つまり聞いたことを理解できるようになる、としている。
つまり人間は歳を重ねていくことで自らの進む道を理解し、障りが無くなっていくと論語では説かれている。
ここに爺の拳大への答えがある。
爺は拳を作らないのだ。
若者は誰かと争い拳を握り、苦境に堪えて拳を握り、何かに怒り拳を握る。
それは若さゆえの了見の狭さや自らの矜持が邪魔をする、いわば暴力的な力の行く当てを見失った不徳を握りつぶすための所作なのだ。
しかし歳を重ね、惑わず、自らの生の意味を知り、聞くもの全てに耳を傾けられるようになったとき人は初めて手を開ける。
爺の拳はもう握る必要のない、そんな悟りのようなものなのだ。
手というのは不思議なもので、同じ手でもその形態で名前を変える。
握れば拳、開けば掌(たなごころ)。
開いた掌でのみ抱きしめられるものがある。
開いた掌でのみ持てる優しさがある。
開いた掌でのみ放てる技がある。
一二三掌(イーアルサンショウ)。
マリリン・スーの必殺技だ。
あのアカツキ電光戦記 Ausf.Achse に出てくるキャラの。
↓↘︎→+AorBorC。
これでその辺の爺なら狩れる。
人間よ、牙を取り戻せ。

どりゃあ!