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噓日記 7/28 カプセルホテルの空

大人になると自分が何者で何処にいるのか不鮮明になる日が時折訪れる。
会社での立ち位置など自分が立つ小さな足場の存在は分かっても、その足場が社会という途方もなく大きな枠組みの中でどこに位置しているのか、何もかもが分からなくなってただただ不安だけに押しつぶされそうになる。
子どもの頃に抱いていた未来を夢見る気持ちだとか将来叶えたいビジョンだとかそんな希望に満ちた空想も、いざその枠組みに取り込まれてしまえば霧のように消え去ってしまう。
それが大人になることだと自分を誤魔化して憧れを諦めて生きる形に最適化されてきたのだ。
しかし体がそうでも、私の魂だけはそれを許してくれない。
だから普段は気が付かないように気が付かないようにと生きていても、その枠組みに捉えられた中で上にも下にも伸びてゆく社会という恐怖に晒されるだけの日々に不意に気がついてしまう日がある。
今日が正しくそんな日だった。
仕事中、急に息苦しくなって今のままでいいのか、今のままがいいのか、そんなどっちつかずの不安だけが胃の上辺りを重く押し込んできた。
吐き気に似た居心地の悪さが倦怠感と一緒に私の背におぶさってくる。
私は定時で仕事を上がり、駅近くのカプセルホテルに駆け込んだ。
一泊3000円の箱で体を丸め無機質な小さな天井を眺めて、その天井と同じくらい小さな息を吐く。
こんな日、私はいつだってカプセルホテルに逃げ込む。
自分が払った金額で決まった時間だけその空間を自分だけのものに出来るから。
それはまるで自分の立ち位置を教えてくれているようにも思えるのだ。
いや、正しく言うのなら自分がそこにいて良い正当性を私に与えてくれるからだ。
何故ここまで自意識の場所を私は恐れるのか考えてみると、その根本には逃れようのない孤独がある。
自分を映す鏡のような友も居なければ、自分を愛する人もいない。
自分自身を観測する手段を持たないまま、ただ全容の見えない社会の中で与えられた役割だけが自分を形作っている。
だからこうして怖くなる。
社会が与えてくれた形でいられなくなった時、私は私でいられるのだろうか、と。
3000円の小さな巣箱は私が私でいられなくなった時、溶け出した私であった何かを許してくれるだろうか。
不安だけをただ抱いて、飲み込んで、見えないふりをして日々を生きていく。
3000円の小さな棺桶で時折、死んだふりをして。
死んだように毎日を生きる。
生きて、死んで、生きて、死んで。
その繰り返しを私は人生と呼んでいる。

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