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【so.】郷 義弓[4時間目]

「ここにいるの?」

 近づいてきた井上さんから小声で聞かれ、私は黙って頷いた。

「なんか…ダメだー私…」

 こんなことをぼやかれても困ってしまうだろう、井上さんは曖昧な表情で「またね」と言って、手を振って行ってしまった。次は移動教室だから、みんなそれぞれの科目の道具を持って出て行ってしまう。誰も私のことを気にも留めない。私、別にいじめられるような覚えはないんだけれど。

 がらんとした教室の中に、また私ひとり。席に座って頬杖をついたまま、視線はまっすぐで、目の前にある花びらを見つめている。花? 今までなんで意識もしなかったのか。眠さでぼんやりしていたからだろうか。私の机の真ん中には白い筒状の花瓶が置いてあり、そこには菊の花が挿してあった。
 ますますいじめを受けているような感じだなあと思って、そういえば昨日もそう思ったことに気がついた。やっぱりお昼ごろだった。一昨日も、その前も。年末頃から私は毎日ずっと、昼ごろに同じ考えに辿り着いていた。

「ええっ!」

 頭にかかっていたモヤが少しずつ晴れてきて、思わず声を上げてしまった。そして3日前にもこの瞬間に声を上げたことを思い出した。昨日まで毎日行き着いた恐ろしい事実に、今日もいま行き着いた。私は毎日この教室で目覚めている。目覚めているというよりも、座った状態で混濁した意識とともに発生するといった感じに近い。そして少しずつ意識がはっきりしだし、昼前後に今のような考えへと自然に着地する。けれどこの後どうなるのかは知らない。記憶のフィルターは常に少しずつ開かれているのだけれど、昨日もそれ以前も全く同じように開いたはずだ。この後に考えることや体験することは間違いなく覚えているはずなんだけど、今日体験するとともに思い出していく。いまと昨日の記憶が24時間のずれで平行移動する。これから私は知っているはずのことを思い出していくんだ。きっと夕方になってみんなが帰って行って、その後どうなるのか、夜にどうなって次の朝を迎えるのか、昨日まで何回も体験しているはずなのに、いまそれを思い出すことは出来ない。
 私は思わず席を立った。拍子に椅子が後ろへガターンと倒れて、この音は5日前にもさせたなと思う。どうなってるんだ、これ!

 窓際に立って、景色を眺めることにした。考えが追いつかなくなると、視覚だけにスイッチして考えを止めたほうが整理出来る気がする。遠くに船が滑っていく。昨日と4日前にも同じく景色をしばらく眺めた。昨日なんて祝日だったから、部活がある誰かがたまに荷物を置きに来たり着替えに来たりする程度で、ほとんどずっと私はひとりでここにいた。外へ出ようにも出られないようになっているからだ。
 船の汽笛。ちろちろ走る路面電車。トンビだかカモメだか分からない大きな鳥の旋回。考えまい考えまいと視覚を意識すればするほど、認めたくない仮説が信憑性を増していく。
 別の角度から考えよう。昨日は祝日だったけど、今日は平日だ。先週も新学期明けで数日は授業があった。私は同じ時間を繰り返しているようで、周りの時間は進んでいる。だから私が過ごしているのも全く同じ一日ではない。

「で?」

 諦め半分に口から漏れた。昨日の私はもう認めていた。一昨日の私はもうちょっと粘ったか。どうやら私は死んじゃったみたいなんだ。

 しばらくメソメソ泣いていた。死んでても涙は出るんだなって、これは3日前に思ったっけ。チャイムが鳴って、もう4時間目が終わってしまった。私は教室の反対側へ歩き、廊下へと続くドアの所に立ってみた。廊下の向こうには教科棟が見える。何故か廊下に出ることは出来ない。

「きゃああ」

 って悲鳴が突然に聞こえて、びっくりしてのけぞりかけたら、廊下の窓ガラスの向こう、空中を、真っ逆さまに誰かが落っこちていくのが見えた。

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