「イメージ」の弊害について

イメージすることの弊害

 繊細な演奏を求められる場面で、イメージによる弊害を感じることが増えた。コロナ禍から演奏の現場が戻ってきたここ2年ほど、今頃?という感は否めないが、現在の私の個人的課題はここに帰結する。

イメージすることの効果

 ある程度楽器演奏に慣れてくると、音程やフレーズの処理、出したい音などはイメージして演奏するよう指導を受ける。私もそう指導を受けてきたし、私自身同様の助言を生徒に行ってきた。しかし最近はその言葉に疑問を持ち始めている。
 音をイメージする行為そのものは大切だ。イメージするには出そうとする音を把握しておく必要があるし、何より(それが生徒自身でなく先生が考えた内容であっても)自分自身で音や演奏方法について考える必要がある。イメージには試行錯誤するための、目標設定としての役割もあるのだろう。
 自分の頭で考え表に出したことは中々忘れられない。そうして演奏の土台は作られていく。

効果から弊害へ

 さて、レッスンなどで普段は一人で演奏し、発表や曲を通すときだけピアノ伴奏をお願いしていると露呈する機会が少ない。なぜならピアノ伴奏者はプロの奏者である場合が少なくなく、演奏の流れに支障を来さぬようフォローすることを第一に、依頼者にひたすら合わせて演奏してくれる場合が多いからだ。
 問題はこの先で起こる。
 楽器経験を積んでいく中でピアニストが共演者となったとき、あるいは室内楽やオーケストラなど1対1の人数編成に変化があったとき、イメージすることの弊害はアンサンブルをする上での悩みとして顔を出す。
 アンサンブルについて意識が向くのは演奏者の耳も初心者でない証拠であり、人によっては聴く能力の育ち盛り。共演者も同以上のモチベーションと可能性を持ち合わせていることが多く、演奏の技術は個人的な問題として脇に置き、精度の違いはあるものの、合わせの時は全体のアンサンブルが課題の中心となる。

弊害というとオーバーだけれど

 室内楽にせよオケにせよ、アンサンブル経験者で「何となく合わない」を経験しない演奏者はプロアマ問わず居ないのではなかろうか。タテは合っているのに、何となく噛み合わない。自分の音だけ浮いている気がする。周りは何も言わないけど、本当に合っているのだろうかコレ。等々。
 演奏に精度や繊細さが求められる場面ほど、その悩みは恐怖感と共に顕著になる。イメージすると寧ろ音程を外す、音程が合わない、状況把握と反応が遅れて結果的に周囲と噛み合わなくなってしまうと、ここ数年は感じている。

解決への模索

 出す音をイメージする行為は、音を出す(発言する)気持ちや覚悟を定める行為でもあると考える。しかし周囲の状況把握が遅れてしまう弊害も感じてからは模索を続けており、基本的な譜読みを終えた後の段階として現在は「一小節ずつ、譜面を目にした時の印象に重きを置く」方法を試している。
 インスピレーションの妨げとならないよう、拍を数えることと、出す音色や音程は一切イメージせず、頭をとにかく使わない方向で譜面を目に入れる。頭を使わない方が、身体はうまく反応してくれるらしい。欠点は、情報の大部分を視覚に頼ってしまっているところか。また楽譜にかじりつき過ぎないように気を付けなければならない。
 人間は器用そうでいて案外そうでもないようで、演奏中は脳内会議など頭を使うと五感を妨げてしまうらしい。確かに瞬時の判断が求められる場で複雑なことは考えられない。当面は「頭を使わない」「考えない」方向で模索を続けるのだろう。

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