いわゆる「十八番」が減っていく不思議。 演奏の現場に加わるようになって、学生から数えること早20年あまり。「これが十八番です」「これが得意です」と言えなくなっていることに気付きました。主な活動ジャンルというか、守備範囲というか、そういうものは確かにあるのですが、到底十八番とは言えません。「弾いたことあります」くらいなら訊かれた場合に限って言うかもしれないけど。 譜読みの手間が徐々に減っていくことは確かなので負担が軽減され、余分な緊張からは解放されるでしょう。 でもそれ
まだ卒業間もない、学生に毛が生えたような頃の話。 静岡県某所で行われた講習会にて。 その講習会は最終日の本番に向けてリハーサルを進め、その過程で演奏の研鑽を積むというもの。指揮者兼指導者の先生は仰った。 「超一流の演奏家というのは、音楽が進みたがっている方向と自分がやりたいことに、うまく折り合いを付けられる人のことだ。」 具体的な表現は忘れてしまったが、こんな感じの内容だったと記憶している。先生が仰っているのがどういうことを指しているのか、当時は理解が追い付かな
学生時代、オケでパート内の演奏がバラついていると「お前らこの後焼肉(or飲みに)行ってこい」と指揮者が言うことがあった。飲食、とりわけ食事を共にすることはアンサンブルに少なからぬ影響を及ぼすものらしい。 興味深いのは、お茶とケーキよりも食事の方が効果を発揮することだ。 単純に時間の長さの違いだろうか。 「芸は人なり」との言葉通り楽器演奏には、演奏者の本性が出る。どんなに言葉を尽くし表面を繕っても、こればかりは誤魔化しようがない。生命活動に直結し、思いもよらないところ
ただいまメンバー募集中 第1次締切は4/12(金) 現在合唱団とオーケストラ、そしてサックス奏者の募集をしております。 第1次募集締め切りは来週の4月12日(金)となっておりますが、その後のお申し込みもできるよう、第2次締切についても現在検討中です。 ※この記事の情報は4月6日(土)時点のものです※ ・旅行先はパリとロンドン 11月5日(火)夜の便で羽田空港からイスタンブール経由でパリへ 6日(水)午前中パリに到着、午後リハーサル 7日(木)午後からGP 夜本番 8日
以前からアンサンブルの常套句「周りの音を聞く」ってどういうこと?と疑問を抱いていた者です。 音を聞くのは良いとして、 ・それがどうしてアンサンブルに有効なのか。 ・シンプルなメロディ2声ならともかく、曲の作りが複雑だったり、相手がピアノだったり、オーケストラなど演奏者が多い場合は自分の演奏と集中力の面でどう折り合いをつけるのか。 主にこの2つに疑問を抱いていました。特に2つ目は、人間皆聖徳太子ではないのであるからして、「頭や耳が追いつかなくなる→アタフタしているうちに落ち
年末年始の初挑戦 遅まきながらこの年齢にして初めて、おせち料理とお雑煮を買い出しの段階から主体的に準備する立場となりました。ありがたいことに、周囲からは「適度に手を抜いて良いのよ」「がんばりすぎないで、無理をしないのが大事」と人生の先輩たちのあたたかいご助言の数々。ありがたく受け取り、ネットでおせち料理の最低限3品を調べ(西と東で違うそうな)、あとは適当に済ますはず……でした。 まぁ3品とお雑煮だけでは寂しいかもしれない。お煮しめと椎茸の含め煮くらいは作りましょう。そ
「客席の片隅で……」 「拍手喝采はいらない。客席の片隅で、誰かが静かに泣いている。そんな演奏があってもいいんじゃないか。」 「君たち、音楽得意でしょ?」 「音を鳴らすんじゃなくて、音楽しよう。君たち音楽得意でしょ?」 上記二つはどちらも今年参加した夏の講習会にて、小林道夫先生が受講生全員に向けて仰った言葉。演奏のたび、事ある毎に脳裏をよぎる言葉の一つとなりました。思い出すたびに内容を咀嚼して、言葉の持つ出汁のようなものを味わっています。 ちなみに個人的に言
イメージすることの弊害 繊細な演奏を求められる場面で、イメージによる弊害を感じることが増えた。コロナ禍から演奏の現場が戻ってきたここ2年ほど、今頃?という感は否めないが、現在の私の個人的課題はここに帰結する。 イメージすることの効果 ある程度楽器演奏に慣れてくると、音程やフレーズの処理、出したい音などはイメージして演奏するよう指導を受ける。私もそう指導を受けてきたし、私自身同様の助言を生徒に行ってきた。しかし最近はその言葉に疑問を持ち始めている。 音をイメージする
そもそも今回ヴァイオリンを弾くことになったのは、カルテットのレッスンを引き受けたことに端を発します。ヴィオラは既に弾く人が決まっていて、自然の成り行きでヴァイオリンパートを担当しながらレッスンすることとなったのでした。 レッスン当日、最初は2ndヴァイオリンを担当しておりましたが、成り行きで1stも弾くこととなりました。念のためさらっておいて良かったという安堵と共に、珍しい体験ができたので備忘録として、感じたことや思ったことをここに書き連ねておこうと思います。 里心
ヴィオラ奏者、ヴィオラに戻る カルテットのヴァイオリンパートを数日練習して、音符の動きの多さや「ヴァイオリン」という楽器に慣れてきた頃、ヴィオラパートも少し触っておこうと思い立ちました。 ヴィオラパートに限って言えば学生時代何度となく弾いた曲です。でもレッスンするからには、弾ける楽器であれば一通り見直しておきたい。昔と今では曲の捉え方が変わっているかもしれない。一度軽く弾いておけば、すぐに感覚が取り戻せるだろうと思って。しかし甘かった。なんか知らないけど、ヴィオラパート
ぼやき 音が細かい 楽器が小さい 指の間隔が狭いから、手が疲れる 音符多い 顎に音の振動伝わってこなくて物足りない E線なんでこんなに音高いの ポジション移動のやり方、不精できない ていうか不精したら行き詰る 大雑把に動いたらすぐに別の音出ちゃう 音符の動き多いよ ヴァイオリンとヴィオラ 上に記したように、練習2日目くらいまではヴィオラとのギャップに悩まされながら譜読みと練習を行っておりました。知っているつもりの曲でも、楽譜の景色が変わると印象がまるで変るものですね。
時々ある ヴァイオリンの方がヴィオラを持ち替えで弾くことは、ヴィオラセクションの人数が不足しがちな学生オケでは珍しくない光景。仕事の現場でも。ヴァイオリン専攻出身の人が持ち替えでヴィオラを弾いていることもよくある話。でもヴィオラの人間がヴァイオリンを演奏することは、ヴァイオリン→ヴィオラの持ち替えに比べると多くありません。 でも、時々ある。レッスンとか。 練習するよ 時折訪れるヴァイオリン演奏の依頼。今回はカルテット。個人レッスンと違いアンサンブルの一員として一緒
箇条書き。気が向いたら詳しく書きます。 個人練習中に思いついたことなので、これがアンサンブルでどう活かせるのかは謎。沈黙の共有と扱いは有用であると思いたい。 音を出す=沈黙を破る行為 音を出すときは、「どうやってorどんな音を出すか」など音を出す行為のみに集中するのではなく、「いかにして現在の沈黙を破るか」に注意を向けてみる。これは曲頭のアウフタクトの扱いや、休符の越え方にも影響するのではないか。 音符を弾き続ける、音を出し続けることの責任 よく言われるのは「
個人的メモ書き。気が向いたら詳しく書きます。 <アンサンブルに必要なもの> ・沈黙の共有 休符の休み方に影響。果ては音色まで。日常会話も、沈黙が気まずい(共有できない)相手と長時間いるのはキツい。 ・一緒に空間を共有する相手への敬意 音符と音符の間の扱い方に影響。自分自身の視野も広くなる気がする。同時に音符や作品への敬意も生まれる。上辺では取り繕えないもの。
昔受けた試験のことなど 約20年前の今頃、私も受験生だった。年明けて中高大と受験シーズンに突入せんとするこの時期に、昔受けた試験の様子など思い出してみようと思う。 試験の課題曲について 当時音大は藝大系と桐朋系、大きく分けて二つの傾向に分かれていた。試験の課題曲もその傾向が反映されていたような気がする。入試を終えた後桐朋の課題曲一覧を見て、併願の難しさを知った。内容がまるきり違ったのだ。 私が受験したのは東京藝大。試験は1月のセンター試験に加え、1次~3次まで、以
前回までのあらすじ(?) 扉を開けると…… 音大の練習室にはいくつか種類があります。詳細は「大学練習室あれこれ」を御覧ください。 教室には色々な匂いがあります。学科授業の講義室は木の机の匂い、冬の教官室の灯油ストーブの匂い、藝祭シーズンの廊下調理で染み付いた唐揚げの匂いetc.。個人練習室は扉を開けると、 ・カップ麺 ・汗 ・香水 3つのうちどれかの匂いでした。 中が暗いから空室だと思って扉を開けると、幅の狭い出窓のような場所で人が寝ている時もありました。 壁の