音楽の外殻(shell)と内殻(kernel)についての駄文

自分で書くとかなり生意気に思えるかもしれないが、こう見えて子供のときから僕はナマクラ刀ではなく、有り体にふざけて言えば、とってもセンセーショナル♡でセンシィティヴ♡だった。恥ずかしさをおさえて歯に衣着せずにいうと、感受性のアンテナが平均的な子供にくらべてわずかばかり秀でているような子供だった。

なまじアンテナの感度が良いばかりに、音楽においては自分がプレイヤーとしては凡庸以下の何もできない人間であることにすぐに気づき、長いあいだ葛藤することになる。

遅くとも5、6歳のピアノの発表会のときには、おなじように演奏する子供たちの中に、”まがいもの”と”本物”が混在していることに気付いてしまった。どうやら、ピアノの出音というのは、うまい・へた、弾ける・弾けない、綺麗・汚い、などの外殻的な情報のほかにも、個人の内殻のようなものが重畳されて出てくるようだった。

とてもオカルト的だが、自分のパーソナリティがそのまま乗って発音するようなイメージだ。

結局は打鍵と認識をもって、どのように感覚と身体をつかいアウトプットするか、という一種のバイオリズムのセンスの良さ、心地よさみたいなものなのだろうが、大人になった今でも、正確に説明しようとすると僕の知識では些か難しい。

ただ、アタック・ディケイ・リリース・サスティンというようなタイミングに起因するものではなく、音の質、音の鳴りそのものだと断言しておこう。
極端な話、チューニングでだす”A”だけで、本物とまがいものは、まったく違う性質を持っている。

いつだったかの発表会中、総括するようにほかの子の演奏を見ていたとき、これをふと感覚的に知覚した。(これはある程度 大人数が同じ曲目などを品評会のように弾き続ける環境にいて、それがアンプを通さない生の鳴りの弦楽器だったことがある人には伝わる感覚かと思っている)
曲の完成度は反復練習によってあがってくるし、うまく弾けるようになっていく。例外を除いてまじめであれば、おおくの子供がここにたどりつくが、それとは違う要素で、音そのものに乗ってくる内殻部分のきらめきのような、希少性のようなものを確かに感じることができたし、これは今でも感じとることができている。

おおまかに極限までざっくり言うと
とどのつまり、ピアノを愛し好きで弾いている子供なのか、それ以外のなんとなく模倣して弾いている子供なのかが音で如実にわかるのだ。それは一般的な演奏の良し悪しではなく、もっとちがう尺度のものだ。

さらに僕が弾いたピアノからは後者の音しか出ていないことが、すぐにわかってしまった。

だいたい一回の発表会で20人くらいの子供を見て、ピアノからほんものの音、がするのは3人くらいの割合だったように思う。残りは僕と同じように、まがいものの音がしていた。全員同じグランド・ピアノ、同じ音響で弾いているのに、だ。
この事実は発表会中の最後のひとりの曲目が終わるまで、永遠と何時間もかけてリフレインされ、まだ無垢な僕の心に幾度も突きたてられた。それはとても心苦しく、苦痛に思えた。嫉妬心と劣等感が骨身にじんわりとしみわたってくるような、何かに見放されたような絶望的に暗い感覚だった。

なにしろこれは 単にピアノの練習が嫌いでうまく弾けなかっただとか、ヘタだっただとかというスケールの話ではなく、自分の中身・内殻を写す鏡のようなものに、醜く、あきらかに劣っているものが写っており、まがいものに感じるということなのだ。

どんなにうまく取り繕っても音は嘘をつかない。鏡にうつった自分の空っぽさがべっとりと貼りついてきて、決して逃げられないのだ。

薄暗い会場で生徒を煌々と照らすスポット・ライト、華やかな飾り付け、先生たちのドレス……。それらはすべて”本物”の音を奏でることのできる一部のこどもたちのために用意されたもので、自分を含む残りのこどもたちは単にお零れにあずかっているのではないのかというような妄想にすっかり取り憑かれた。

さらに子供心ながらに 拍車をかけて苦痛だったのは周りの大人(親)たちが二者の違いを理解できず、同列に扱ってきたことだ。あろうことか、全員に”よく頑張ったね”と賞賛を送ってくる。僕はそれが死人に鞭打つ行為であるか、あるいはおだてられ、舐められているかのような気がしてしまい、嫌で嫌で仕方なかった。…ほんとうはわかっているくせに、と。

 
とても残念なことだが以来、僕はこの感覚にたいして真剣に 夢中で戦うことをせずに、理由をつけて、隠れ、逃げ続けた。見て見ぬふりをして、怠惰や、練習がきらいなことや惰性でやっていることを理由に心を閉ざした。



それからピアノを辞めるまでのトータルの12年ほど、旅行などを除いてどんな日もかかさず、毎日必ず30分だけ練習をした。だけど、30分以上にふやしたり、それ以上一生懸命に向き合うことはしなかった。嫌いだったし、怖かったからだ。ピアノがというか、自分が燃え尽きるほどやっきになったあと、箸にも棒にもひっかからなかったときのことが、だ。また、それでいて辞めてしまい二度と弾けない、弾かないというのは貧乏根性からもったいない気がしていた。

あえて後付けでいい体に言えば、うまく一生付き合えるように、真剣に向き合うことをやめたのだ。

こうしたバック・グラウンドが僕にあるので、楽器というのは自分の内殻を測る手段である、と定義している。音楽とは、たとえ醜くてもショボくても自分のパーソナリティを突きつけられる、という魅力的で危険なものなのだ。
たまにお気に入りの楽器を擬人化し、愛玩的に子供、恋人やパートナーのように喩えている人がいるが、僕に言わせればそれは児戯的なふざけた考え方で、本質をとらえていないと思わざるを得ない。楽器のほうから心を開き、愛されることなどないのだから。自己投影がひとりあるきして、主動でなにかしてくることなどありえないのだ。

さて、音がヒトの内殻から出ている当時の僕の直感は、それからだいぶたった後にプロのピアニストになった友人によって裏付けられた。彼女はピアノ教室の先生もやっているのだが、生徒の子供たちに好きな子ができると、いつもと出る音が変わるのですぐにわかるらしい。恋の類も、内殻に影響をおよぼすようだ。
ちなみに、20年近く前、ぼくらがまだ中学生だった当時から、この人の弾くピアノからはたしかに”本物”と思しき音が出ていた。
20歳くらいまでは、うすらぼんやりだが、僕はこういった “本物” の音を出せることこそが世の中で言われているところの”才能” というやつなのだと思っていた。現に”本物”を感じた当時の友人は、ピアニストになったり、先生になったり、テレビに出て有名なアーティストのバックでギターを弾いたりしている。


しかし、現在の僕は少し違う解釈を持っている。
“才能”とは、自分が空虚で醜いと言う事実を突きつけられた後も、本気で向き合い、逃げず戦いつづけることができるかどうか、だけだ。

なんのことはない、あの友人たちは全員それを苦に思わずやってのけた人間だったのだ。


ふりかえれば、自分には後悔は一切ない。

僕の中のゴールは弾くことを長く保たせ、一生趣味として弾くことなのだから、かの境地にたどりつけなくとも 鍵盤とは別のありかたで現に上手く付き合えているし、うまくやっていると思う。歳を重ねたこともあってか幸いなことに、鏡の中のニセモノの自分、醜い自分を成長とともにいつしか受け入れたことができた。かつての本物の子供たちと比べず、自分を変えることを目指さないようにすっかりあきらめた。

いまでこそわかるが、この考え方は、ある意味で結婚感に近い。


………なにかを好きになれること、好きなもののために戦い抜けること、戦い抜けるほど好きなこと。どれも素晴らしいことだ。万人にできることではなく、とても尊く価値のあることだと思う。こればかりは、リアルで本当の理屈だ。
それをやってのける素晴らしい人間を、僕は色々な世界においていままで何人も目の当たりにしてきた。
そのたび、自分とはまったく見ている景色が異なるであろう彼らに畏怖の念をこめた眼差しと、すこしの嫉妬心を向けてきた。

急に話が飛躍するが、これほどまでに世間で多様性がトレンドになる前、僕らが子供だった1990年代はこういった一点突破型の夢中になれるものを見つけてだれにも負けないことを目指すことこそが人生の誉れとされており、見つけられない者はつまはじきにされて然るべき、というような奇妙とも言える謎のプレッシャーがあったと思う。

だけど、僕のようになにも無くても、逃げたとしても、あきらめたとしても世の中というのはそこそこうまく、楽しく生きていけるのではないだろうか。

せっかく音楽や芸術という自己投影の手段を手に入れたのだから、気負わずできる範囲で鏡に写っているみすぼらしい自分自身と対峙すればいい。

自分への変化を強要してそれができなければ自暴自棄になるのではなく、ながいペースでお互いに受け入れることも ひとつの手段ではないのだろうか、ということを、できればはやい段階で子供のころの僕に教えてあげたかった。

できるだけ、やさしく。

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