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ウクライナ旅行記2024【6日目】

今日も早朝5時頃にの空襲警報で目が覚めるも再び眠りに落ちる。
8時に再び起床し、テレビをつけると見覚えのある景色が映っているではないか。
いや、でも似たような景色はどこにでもあるし、まさかね、えっ…
実家から最寄駅までの道のりの一部が破壊し尽くされた無惨な姿でそこに映っていた。

呆然とテレビ画面を眺めた

ハルキウの長距離バスターミナル近くの住宅地に着弾し、民間人が犠牲になったとのこと。この辺りは中心地からメトロで一駅の住宅街だけあって、比較的人通りは多いと思う。
ハルキウ出身の友人のほとんどはキーウ、リヴィウ、または国外で避難生活を送っているものの、ご両親はハルキウに残っているケースが多い。今さら新しい生活を始めるよりも故郷と運命を共にしたいと言うのだそう。一度は国内の他州へ避難してもやはり故郷が一番だと家に戻ったという話も聞く。
キーウで仕事を続けているMのお父さんもハルキウに残っているため定期的に様子を見に帰省するものの、市街地の半分が破壊されつつあるとのことだった。

ハルキウは第二次世界大戦における独ソ戦の激戦地の一つで、この時も街は焼け野原となり、人口は戦前の1/3になった。独ソ戦とホロドモール (ソ連政府によって人為的に引き起こされた飢餓状態) は、この街を知るためには避けては通れない歴史の一部である。
街は第二次対戦後にソ連政府主導で再建されたために、他の都市とは異なる趣の建築物が多く見られる。ワルシャワ滞在中にどこか親近感を覚えるのはこのような経緯も関係しているのかもしれない。

ハルキウの人々は "ハルキウ愛" を隠さない。
避難生活を送っている友人たちは「ハルキウに帰ることを諦めていない」と口を揃える。そういう人たちの想いを知っているからこそ、ハルキウから届く悲惨なニュースには打ちのめされる。


長いエスカレーターでの小さな楽しみ”広告読み”

前日も会ったMとの待ち合わせまでに時間があるので、毎回訪れている雑貨店を目指してアルセナリナ駅周辺を散策することに。
キーウは坂の街で、ちょっと散歩するだけでも良い運動になる。アルセナリナ駅周辺は市内の他のエリアよりも海抜が高いために、必然的に世界で最も深い地下鉄駅となったというわけ。(”某何でも世界一になりたい国”が僅かに記録を更新する地下鉄駅を建設したたため、現在アルセナリナ駅は世界第2位となった)

果てしなく長いエスカレーターに2回乗ってようやくプラットフォーム階に到着。
以前エスカレーターの乗り口から降り口までストップウォッチをまわしてみたところ、2分20秒かかったので地上から地下まではトータルで少なくとも5分はかかることになる。私の暇つぶしは流れる広告を読んで内容を推測するゲームを独り楽しむこと。

駅の周辺には新たにカフェやレストランがたくさんできている。新しくないのかもしれないけど、4年ぶりの私には全てが新しい。
そしてお目当ての雑貨屋は味気ない両替屋になっていた。

怖いもの見たさで1度は泊まってみたいサリュト・ホテル

地下深くへととんぼ返りするのもつまらないので、フレシャティク通りまで徒歩で戻ってみることを思いついたのだが、これが悲劇の始まりとなる。
適当に中心地の方角に向かって歩いていると、鹵獲した戦車や装備品が並べられた道を見つける。国立軍事歴史博物館だった。

これも経験と自分に言い聞かせて見学
こんな物が21世紀にも使われている

こうして思わぬ発見をすることもあるのだからノープラン散策も悪くないよね、なんて考えながら悠長に歩き続けていると、通行止めに突き当たった。どうやら政府機関の周辺一帯が封鎖されているらしい。

住民は通行証でも持っているのだろうか

それならとルートを変えるとまた別の政府機関、今度は軍用病院…と完全に行き詰まる。近くの人に聞いてみようと思ったら、前を歩いている若い女の子2人組もスマホを片手にきょろきょろ周囲を見回している。どうやら皆が同じ状況らしい。

よく考えてみたらこの一帯は大統領府をはじめ政府機関が集中しているのだから、攻略は不可能なのだと悟り、おとなしく来た道をアルセナリナ駅へ戻ることにした。

こんな景色に出くわすのはやっぱり楽しい

アルセナリナ駅からメトロを乗り継ぎ、ウニヴェルシテト駅に到着。
ここでもぼんやりと広告を眺めながらエスカレーターに乗っていると、ガタン!という音とともにエスカレーターが止まった。
ここで停電⁈と思いきや、冷静に辺りを見回すと広告の電灯は点いているし、隣の逆方向のエスカレーターは動いている。単にこのレーンだけが故障したらしい。

想像してほしい。終着地が見えないほど長く、さらに日本よりも遥かに猛スピードで動くエスカレーターが突然止まるのだ。
幸いにも前に立っていた恰幅の良いおばちゃまが転がり落ちてくることもなく、人々は何事もなかったように止まったエスカレーターを登り始めた。
すぐに地上階から駅員さんが駆けつけてお年寄りの介助をしていた。

2020年撮影
異空間に吸い込まれそう

やっとの思いでエスカレーターを登り切り、駅の外に出ると雨がザーザー降っていた。

仕事終わりのMと合流するも、雨は止みそうにないので再びフレシャティク駅までメトロで移動し、駅からすぐの麺屋武蔵に飛び込む。
日本の麺屋武蔵から正式なライセンスを授かっているだけあって、ちゃんと日本の味だった。(日本で麺屋武蔵さんに行ったことがないので、あくまでも日本人として一般的に美味しいラーメンだという話ですが…)
ついつい嬉しくてズズズっとラーメンを啜っていると、音をたてて麺を啜っているのが店内で自分だけだと気づき赤面してしまった。

熱々ではなかったけれど心に沁みる味
店の外にはコサック衣装のミ◯オンが!
この後おもむろに”中の人”が顔を出す

店を出ると、軍服姿の加えタバコで周囲の人に何かを叫びながらフラフラと歩いている男性に遭遇する。心身を蝕まれて戦場から帰還したのかもしれない。周りの人たちは特に気に留める様子もなく、一人の中年女性が話しかけたものの会話は成立しなかったようで、男性はまたフラフラとどこかへ行ってしまった。
現地の人々の言うところの"新しい日常" を部外者の私が受け入れ消化するにはまだまだ時間が必要だと思った。果たして時間が解決してくれるのかどうかもわからないけれど。


この4年間に新たに完成したキーウの新名所、通称【クリチコ橋】を目指してお散歩することに。マイダン広場下の地下街を散策しているうちに雨が止んだので、広場の反対側から地上に出て、ソフィア大聖堂までの坂を登る。

大聖堂前広場のフメリニツキイ像はなぜか顔だけをひょっこり出した状態で、それ以外は厳重に保護されていた。

コサックの長、ボフダン・フメリニツキイ騎馬像
向こうに聖ムィハイル黄金修道院が見える
2018年撮影

ソフィア大聖堂からまっすぐ歩き聖ムィハイル黄金ドーム修道院へ到着すると、防弾チョッキを身につけた聖オリハ像が目に飛び込んできた。これはジョークと言うのだろうか?適当な言葉が見つからないし、どう反応したらよいのかもわからず戸惑う。

国教化に先駆けていち早く洗礼を受けたオリハ妃
2019年撮影
奥の白い建物は外務省
2018年撮影

修道院前の聖ムィハイル広場にも鹵獲した戦車や装備品が展示されていて、その横で軍服を着た男性がヴァイオリンを演奏し寄付を募っている。
そしてこういう場所には便乗して寄付と称してリボンを売りつけてくる人々が必ずいる。私のような外国人は特に集られることが多かった。寄付は然るべきところに、然るべき方法でしましょう。


聖ムィハイル広場はバイデン大統領が訪れたことでも有名な場所。修道院の塀は命を落とした戦士達の遺影で埋め尽くされていて、バイデン大統領のみならず各国の要人が報道陣を引き連れて来て献花をするお決まりの ”撮影スポット” となっている。

塀のどこからが2022年以降なのかおわかり頂けるだろうか
遺影で埋め尽くされた塀は右方向にまだまだ続いている

過去にここを訪れていた際には、2014年から続く東部戦線での戦没者の遺影が年々少しずつ増えていることに目を留めていたのだが、今回の訪問では2022年2月以降の遺影で埋め尽くされた塀が恐ろしいスピードで増えていることに衝撃を受けた。いつか塀は曲がり角に行き当たる。塀の先を見つめながらしばし動けなかった。
この記事をお読みになって下さっている皆様が、もしいつかキーウを訪れることがあれば、是非ここにもお足を運んでほしい。

塀沿いに聖ムィハイル黄金ドーム修道院の反対側へ回り、クリチコ橋を目指してヴォロディムィルの丘公園の中を歩く。
仕事終わりに駆けつけてくれた友人Mはここでは珍しいスーツ姿。(休日だったこともありより目立っていたと思う) 加えて周囲に目を配りつつ、あれこれ説明しながら歩いてくれるものだから、さながら優秀なSPと東洋女の怪しげなペアといった様相でつい笑みがこぼれてしまう。

どれだけ美しい公園の中を歩いていても、残念ながら話の内容は決して明るいものとはならない。戦争が支配する生活が当たり前になり、毎日を必死に生きていると季節や記念日など気に留めることがなくなった、とMは言う。
20年前のウクライナは独立後の混乱の中で最も貧しい時を過ごしていたため、出生率が大幅に減少したのだそう。そのため現在20歳前後の若者の数が少ない。政府もそこを理解しているため、あらゆる皺寄せがその上の30代40代、つまり自分達の世代にのしかかっているとも話してくれた。
”今や戦争が国のブランドになった、もうウクライナは自分が知っている国ではない” と悲しげに搾り出された言葉が忘れられない。


いよいよ "通称" クリチコ橋に到着。
(正式名称は”Pedestrian and cycling bridge over Saint Volodymyr Descent/ 聖ヴォロディムィル坂にかかる歩行者と自転車のための橋” ととても長い)
ご存知の方も多いであろう、ボクシング元世界王者にして現キーウ市長のヴィタリ・クリチコの指揮で建設されたガラスと鉄の橋。2022年10月には付近にミサイルが着弾したものの、軽微の損傷で済んだとのこと。


鉄資材はあのアゾフスタル製鉄所の製造
橋の下の遊歩道(2018年撮影)

クリチコ橋の終着点は "元" 友好の門のある広場。
門はマイダン広場からも見えるのだが、何やら傷?汚れ?のようなものが見えていて前日から気になっていたのだ。

下にあった石像は撤去済み
2018年撮影

現在の正式名称は【ウクライナ人民の自由の門】
1982年に(一方的に) ”人民の友好の門” として建設された。
2022年侵攻開始後にいよいよこんな物は壊してやるという機運になったものの、国全体が戒厳令下にある状況で解体に莫大な費用を投じることに疑問の声が上がったため、ひとまず名称を変更し、石像のみを撤去することで落ち着いたのだそう。
それでも忌まわしい存在であることに変わりはないわけで、”アート” と称して大きな傷が付け加えられた。

人民友好の門改め、ウクライナ人民の自由の門からドニプロホテルのある広場に出て、スタート地点のマイダン広場まで戻ってきた。徒歩で市内主要部を一周してきたことになる。ケーブルカーに乗って丘を下ったり、アンドリイ坂方面にまで足を延ばすといったオプションもあるけれど、この日のルートは私的キーウお散歩マップに登録決定。

そこからさらにフレシャティク通りに新しくできたカフェ併設型の本屋さんに入るることに。それにしても本屋が増えた。本屋さんこんなにあった?とMに尋ねると、露語の本を一掃し、ウクライナ語の愛国的な本の出版に積極的な政府の意向が反映されているとのことだった。
自分の学習用に子供向けの簡単な本を数冊購入する。

お次は大好きなペレピチカ屋さんへ。
寒かろうと暑かろうと、キーウに来たら必ず並んで買うソウルフード。
一言で言うなら "ソーセージが入った揚げパン" なのだが、パン生地にほのかな甘味がありサクサクフワフワ。日本で再現を試みたものの、このソーセージが日本では見つからない。

食べかけ失礼致します…

最近になって40フリヴニャから45フリヴニャに値上げされたそうだけど、私の記憶では40フリヴニャよりもさらに安かった。45フリヴニャになったとしても160円程度。こちらもぜひぜひ現地の人々に混じって味わってほしい。(ちなみに1個の購入からクレジットカード使えます)

キーウのこのお店でしか味わえないこの味こそ、ウクライナに来たんだ!と実感させてくれる。


聖ヴォロディムィル大聖堂
スラヴ圏の夏至祭イヴァナ・クパラの日だったため
教会周辺ではお供えを作るためのハーブや花が売られていた

午後7時過ぎホテルに戻る。
早朝のハルキウのニュースに始まり、雨と猛暑が交互に訪れる不安定な天気に振り回されて疲労困憊。ベッドでウトウトしていると身体が熱いことに気づき、熱を計ってみたら38.40度…!

豚汁を飲んで、解熱剤を服用して、冷えピタを貼って、さらにスポーツドリンクを飲んで、眠りについた。


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