劣等感を感じている部分とは、いったいどのように付き合う?
「足手まといと思っていた<繊細安心くん>が実のところ・・・」
僕の中にいる人格部分の一つ、挑戦や冒険を嗜好する行動派の「挑戦冒険くん」がもう一つの繊細で傷つきやすく慎重派の「繊細安心くん」に向けて
「おまえは、タイヤ引きトレーニングの為のトラック用タイヤか?!邪魔ばっかりしやがって!この足手まといが!」
という暴言を吐きだした事に端を発した、僕の内側での大暴動。
そもそも僕自身が
繊細で傷つきやすい「繊細安心くん」を自分の欠点・劣等部分と考え、そうした部分がある故に、たくさんのチャンスを逃し、男らしさからも遠のき、仕事でもパートナーシップでもどこか劣等感を感じてきました。
その事に、改めて向き合わざるを得なくなったというところを
先回の発信で書かせてもらいました。
https://note.com/vinnie_tarumi/n/n3a320e14b9dd
想い返せば、2002年から学びだしたコーチングの中でも、
自分が受ける側のクライアントとして挙げるテーマの主軸は
「あるがままの自分を愛する・認める」でした。
(コーチングだけで終わらず、その後に出会った数々のカウンセリングで取り扱ってもらうテーマも大きな括りとしては同様でした)
あるがままの自分を自分で認められない故に、虚勢や見栄を張ったり、相手に気に入られるような人を演じたり、本音を隠して鬱憤を貯めたり、薄毛を隠したり・・・。
性格的にも外見的にも劣等感を感じ続けてきたのだろうと思います。
その結果、どうも相手との間に見えない壁を築いてしまって、心を許せる人が限られて来ました。
(言わば、これまでの人生を通して、自分の中にはびこる劣等感とどのように付き合うかの格闘をしてきたようにも思えてきます)
劣等感の全てが悪いわけでは無く、劣等感が自分の原動力となって成長や進化を生み出してきたことも否めません。
それがコンプレックスになって、無闇なマウンティングであったり、他者との心の壁を生み出すまで至るのは、やっぱり多くの問題を起こしかねません。
アドラー心理学が言うところの劣等コンプレックスであり、
「劣等感」を言い訳にして、人生の課題から逃げ出すことです。
そうした劣等コンプレックスに対しては、自分が劣等感を感じているところを自ら責めたり恥じたりするのでは無く、変えようとしたり、無いことにしたりするのでもなく、あるがままを受け容れようというコンセプトは、何度も「手を換え・品を換え・言葉を換え」学んできたし、自分なりにそれを取り込もうと努力はしてきたつもりです。
そうした努力の結果としては
劣等部分と思える「繊細安心くん」は、今更変えられないから、諦めて付き合っていかざるを得ない自分の一部分という位置づけ。
しようがないなぁ、そういう部分もあると諦めて、その上で、どのように生きるか?を考えようか・・・。
そんな捉え方に落ち着いたのですが・・・・。
どうも、なんだか、僕の中では腑に落ちなかったんです。
何処まで行っても
「繊細安心くん」が劣等部分であることには変わりが無い訳ですよね。
結局の所「正直言うと無ければ良かった部分」・・・・、と言ってしまうこと。これがどうにも収まりが悪かったんですよね。
「無ければ良かった部分」ではなく、「あったからこその僕」であり、「あったからこそ経験できたこと」にならないと、なんだか(自分が?)浮かばれないなぁと思えてなりませんでした。
「繊細安心くん」があったからこそ、体験できたこと。
「繊細安心くん」があったからこそ、発揮された僕らしさ。
(いや、もう少し言うと、「繊細安心くん」に限らず劣等部分と捉えている全ての部分においても、同じ事が言えないのか?)
こんなことを念頭に入れながら、「挑戦冒険くん」と「繊細安心くん」とで、ロープを引っ張り合ったり、罵声を浴びせ合ったり、しているシーンをイメージしてみたりしました。(一種の内省的ワークです。)
ここでの両者は<主>として人生を牽引していく「挑戦冒険くん」と、<従>としてロープに繋がれたタイヤのように引きずられる「繊細安心くん」との攻防でした。
ひとしきり葛藤関係を味わった後、なんだか、両者とつながり、両者の間に立っているロープの気持ちになってみたくなって、イメージしてみました。(ここからは、あくまでもイメージなので、僕の中の期待や幻想とも言えます。)
すると、ロープの立場として、両者が酷く罵り合っている状態は悲しく、もっと両者がコミュニケーションを取って欲しい。と言いたげでした。
「それであれば、たまにはロープの気持ちも汲んであげるか」と、罵り合う両者が一歩ずつ近寄るイメージをしたところ、不思議なイメージが湧きました。
それが冒頭に書いた
「足手まといと思っていた<繊細安心くん>が実のところ・・・」というものです。
実のところ何だったのか?
それは
「老齢の賢者。言わば長老のような人物」でした。
「えっ!?」
「足手まといで、腰抜けで、弱虫で、臆病で、こちら(挑戦冒険くん)が勇気づけたり、気にかけて接してあげなくてはいけない存在。だとてっきり思い込んでいた、あのへなちょこが実は、賢者だったなんて。。。」
だとすると・・・。
反対側の<繊細安心くん>から見える<挑戦冒険くん>は血気盛んな若武者のように見えました。
若武者<挑戦冒険くん>が縦横無尽に強みを発揮し、且つ僕自身が居心地良く生きられるようなバランスをとろうと智恵を与えてくれたり、体感覚を通してメッセージをくれていたのが紛れもなく<繊細安心くん>だったんだぁ。
既に、あるがままの自分を生きているなぁと自負されている方からすると、なんて事は無い結末かもしれませんが、僕にとっても、大きな転換点になりました。
正直、コペルニクス的転回が起きたような気分でした。
(前回の投稿の際にも、友人達から<繊細安心くん>の功績などを伝えてもらっていたことも大きな導火線になっていたのだろうと思います。こころより感謝しております。)
劣等感を感じていた部分が、僕にとっては、かけがえのない部分であり、その部分のお陰で、僕自身が居心地良く生きられてきたのだなんて!!!
少し視座を上げて考えてみると、
劣等感を感じている部分も、きっと“自分にとっては”かけがえのない部分なのではないでしょうか?
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「無ければ良かった部分」ではなく、「あったからこその僕」であり、「あったからこそ経験できたこと」
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そんな風に捉えられると、さらに、自分の人生のオーナーシップを引き寄せられるかも知れませんね。(ここはもっと探求していこうと思っています。)
想い返すと、幼少期の僕は、引っ込み思案で一人遊びが得意。言わば内向的な子供でした。
その僕が、高校時代ぐらいから、徐々に外に対してエネルギーを発信し始めたりして、社会人になって営業職に就き、必要に駆られて本格的に外向性を発揮し始め、じきに訪れた外側の期待と内側の想いとの葛藤の末に辿り着いたのが「人生のオーナーシップを自らの手に」でした。
その信条はある意味、「手にする」という<能動性>を表したものです。
言わば、<挑戦冒険くん>を自分の看板イメージにしてきたところがあります。
(とはいえ、<繊細安心くん>の片鱗はそこここで洩れていたとは思うけど)
そこで、無意識のうちに、自分の繊細で傷つきやすい<繊細安心くん>を表面化させることを抑えてきたのが、劣等コンプレックスに繋がっていたのでしょう。
付き合いの長い<繊細安心くん>が持つ賢者としての叡智を大切に扱っていきたいなと思います、
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〜人生のオーナーシップを自らの手に〜
エグゼクティブ・コーチ
ヴィニー垂水
自分の人生のオーナーとして主体的に生きることで、自分が持つリソースを気づき、最大限に活かすマネジメント・リーダーシップを発揮したいという方は↓
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