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【12月】言葉と思考、感情と身体 Study@UniMalaya

Midsemester breakも終わり、残るはあと3週間の授業を経てFinal Examに突入します。ところが本当にマレーシアは祝日休日だらけでして、Final Examの前にRevision Weekというテスト対策期間が丸1週間、更に最終週である第14週に祝日が2日あるという理由で第14週の授業がなくなりました。「家族とゆっくり過ごす時間」を大切にするこの国では、温かい家族がいないなどということは想定外のことのようにすら感じます。

この1ヶ月は一見順調なようにも見えましたが、自分の思考や心に来る様々な危機との戦いでもありました。

学習面について - 語学

後述の「生活面について」でも触れますが、語学面で最も問題だったのは英語そのものではなく、英語に頼って生活することに従って生じる日本語力と思考力の低下でした。思考が扱う言語の制約を受ける以上、英語で情報をインプットし、英語で考え、英語でアウトプットを行うという、日本語を介さない「英語習得」の観点からは一見理想的なこの日常は、次第に日本語力を衰えさせ、またインプットとアウトプットを介在する「思考」のプロセスが、「英語で考えられる範囲までの思考」に留まる結果となり、自分でも気づかぬうちに極めて浅い思考のみに頼って生活していたことに気づきました。反対に簡単な日常会話から授業での発言に至るまで、授業開始当初は「日本語ではここまで精緻的に考えられたが、それを英語でアウトプット出来ない」という思考とコミュニケーション力のギャップに苦しめられたものの、現在では英語力が向上し、思考力が英語力に「適応して」低下したことで、思考とコミュニケーション力のギャップが解消されていました。

私は留学に際して、他の留学生よりも海外大学院に挑戦されている社会人の方や駐在員の方の情報を主に参考にして準備してきたのですが、語学に関して支配的な考え方に、「10年英語に挑み続けて漸く日本語で言いたいことが話せるようになった」「最も深い次元の思考は母国語でしか出来ない。考えるのは日本語、コミュニケーションは英語で不自由なく行うことが出来ることが、バイリンガルとしての日本人の一つのゴールだ」「最初に物事を学ぶときは母国語を最大限に使う」といったものがありました。留学開始直後は「英語で考えて英語でコミュニケーション出来るなら、それが一番楽でいいじゃないか」「なんだか日本人は一生、本当の意味では英語が身につけられないみたいじゃないか」と感じており、こうした先輩方の意見に対して若干疑問を抱いていたのですが、3ヶ月目に突入し「順調に」語学力が伸びてきたことで、その副作用も無視できないレベルで大きくなってきました。

私は自分の「思考力」に誇りを持っていました。もちろん自分より頭が切れるなと思う人もいます。それでも現状自分が手にした情報を元にそれを運用する能力においては、正直にいえば相当の自信を持っています。それ故に、思考力が自分のアイデンティティに占める割合は非常に高く、仮に英語力と思考力が対立する関係にあるのであれば、私は思考力を選びます。この留学を経て「英語が如何にして身についていくのか」が徐々に明瞭なものになるに連れて、言語と思考、そして思考と記憶の関係性が、生にも負にも分かるようになってきました。

こうした省察を経て、私は英語習得における目標設定を変更する必要があると考えました。これまで「英語の習得」における最終ゴールは、「何不自由なく英語が扱え、英語を母語として生まれた人たちと対当に、自分らしくコミュニケーションが行えること」と設定していました。その実現の過程では、「物事を英語で受け取り、英語で考え、英語でアウトプットする」という「日本語レス」な情報処理を行う必要があると考えていましたが、「思考力の比重が語学力よりも上位である」「非英語ネイティブであるという制約」を検討に入れた結果、「情報のインプットとコミュニケーションは英語で不自由なく行うことが出来るが、思考プロセスにおいては自分が最大限の思考を行う事のできる言語に依存する」という、不完全なバイリンガルの姿をゴールとすることにしました。ある意味、「恐らく後10年、15年あがいても、英語は日本語と同じようになることはない」という事実の受け入れと諦観があったと思います。

学習面について - 授業

授業に関しては、特に特定の授業に限った話ではなく、上記の語学力(英語)の向上とエフォートレス化に伴ってより積極的に発言を行うことが出来ています。ジェンダー論のスペシャリストであるDr. MuhairahからはSemester開始当初から大変良くして頂いているのですが、Development Economicsの授業内での発言の際には、 “Yoichi, we’re always depending on you” と言って下さり、毎回全体発言を通じて意見共有をしていることが報われた思いでした。Politics and Government in Southeast Asiaでは、毎週任意でレポートを提出し、提出した生徒のみがプレゼンテーションを行うという体制を取っているのですが、12月末の時点でレポート提出は常に自分が最速で(提出状況がポータルサイトから分かるため)、年内最後の日には遂にプレゼンターが自分一人になりました。Development EconomicsのLecturerであるDr. MuhairahはGender and Developmentも担当しており、こちらではジェンダーに纏わる政策や状況について、毎回日本ではどうかと授業内で発表の機会を与えて頂いています。Dr自身ジェンダー研究においてドイツと日本の政策をマレーシアの政策との比較対象として研究されているそうなので、授業初回に名前を覚えていただき、授業内で5回は「Yoichi」と呼んでもらえることもあってクラスメイト全員に自分の名前だけ覚えられています。Dr. Muhairahには本当に、Semester終了後何らかの形で感謝の気持ちを伝える必要があると思っています。Project Management and Analysisでは最も危惧していたペーパーテストがありましたが、準備してきたこともあって十分戦うことが出来ました。というより、資料閲覧が可能でない前提で準備してきたので、周りの学生がその場で調べながら解いている中何も見ずに20分ほどで終わらせてしまいました。制限時間が2時間半だったのですが、やはり確認くらいしておくかと資料で確認した後、1時間経った辺りで帰らせてもらえました。

さてここからはいくらか「愚痴」にも聞こえてしまうかもしれませんが、自分なりの考察を持って授業に対する不満な点も挙げていきます。まずここまで学んできた結果言えることとして、授業全体として「知的レベルが低い」と言わざるを得ません。いくらか法政と変わらないなというレベルのものもありますが、どうもごく浅いレベルの議論で1回3時間の授業を費やしているように思えます。開始当初は「レベルが高い」と感じていましたが、それは「英語で学ぶ自分にとっては」レベルが高いのであって、前述の通り英語での学びに慣れ、課題提出にも慣れ、そして「インプットとアウトプットは英語、思考は日本語」というスタンスへの変更もあり、遥かに法政にいたときの方が深い、精緻な議論をしていると感じるようになりました。

この点に関しては、主に2つの真っ当な理由があると考えています。まず1つ目が「マレーシア人にとっても英語は外国語である」ということです。バラツキはありますが、彼らの英語力は(スピーキング力ベースで)私の英語力同等からそれ以上、たまに非常に流暢な人がいる、という具合です。しかしどうやら得意な技能においても国による傾向の違いはあるらしく、ライティングに関しては現地の同級生から僕が褒められた程でした。つまりマレーシア人にとっても「英語で考える」ということは、思考力が低くなることを前提としているのではないか、という仮説が浮かび上がってきます。加えて教育における重点的課題の違いや教育制度の充実度合いの違いから、大学生の思考力についても日本とは相違があると言えるかもしれません(この点については日本の大学生を美化し過ぎかもしれません。そういえば知的な議論に微塵も興味のなさそうな大学生も沢山いたような気もします)。

2点目として、「マレーシアの公教育が学部生に求めるレベル」の問題が考えられます。問題と言うより、寧ろこちらがワールドスタンダードなのかもしれませんが、どうやら「専門科目」を受講しても、学部生に求められるのは専門性のイントロダクションを理解するレベルに終始しているような気がします。日本で「専門科目を受講する」というと、もちろん分野による差異はありますが、少なくとも法政大学の経営学部では一般化されていてポピュラーな理論については一通り網羅します。もちろん体感の努力度は各学生の態度次第ですが、例えば「マーケティング・マネジメント論」を素点評価で満点を取ろうと考えれば、指定教材(500ページほどを2学期通じて1冊)を3〜4周読み込んで40題の期末試験をギリギリ満点(特に後半の20題は難題)、加えて年間14枚の1,500字以上のレポート提出が必要です。レポートでは理論の一般化をした後具体化をしていき、その過程で理解度が判定されるため、論点の抜け漏れなく満点を狙うのであれば大体各レポートは3,000〜4,500字くらいまで膨らみます。このレベルの授業が週に11〜13コマ入ってくるのが僕の法政大学での生活でしたが、授業時間はほぼ倍のはずなのに、マラヤ大学では1回の授業の密度が法政の1度の授業の密度を下回ることも多く、それが週に5コマしかない訳です。しかし時間はやたらかかるので、「時間的な」限界はその辺りなのですが、要は1時間辺りの生産性が(少なくとも知的な議論という観点からは)非常に低いと感じました。

そういえばアメリカも似たような状況だと聞いています。両者に通じているところは、そもそも学部生に専門性を求めておらず、専門性はマスターコースで、というスタンスが取られている点でしょう。あくまで法政大学とマレーシアの最高学府であるマラヤ大学の比較になりますが、これは高校生の時点で高度に抽象的な議論が可能な学生を輩出し、学部レベルでも専門的な議論を展開する事のできる日本の教育力が素晴らしいというべきなのか、あるいは日本で大学院に行くという選択肢があまりに狭く、日本の研究者育成意欲の低さ故なのかは分かりませんが、日本の学生は(少なくとも法政大学の学生は)、ある程度の専門知識のインプットを前提として、自分の頭で考え、それを議論する環境に、実のところ非常に開かれているのではないかと思う次第です。よく「日本人は自分で考えることが出来ず、言われたことしか出来ない」などと(主に日本人によって)言われることがありますが、とんでもないです。世界人口の殆どは自分で考えるどころか人に言われたことすら出来ません。寧ろ日本人は人に言われずとも自分のことだけでなく、自分以外の人のことまで考えているように見えます。従う能力が高いだけで、考える力が低いなどとはまるで感じません。

もう一点授業に関する不満を挙げてこの章を終わりにしようと思います。現在グループ課題が2つ進行中、1つがこれから開始というところで、進行中の2つにおいてリーダーの役割をしているのですが、今の所ほぼ誰一人としてプロジェクトの時間を守りません。思考低下の影響で暫く忘れていたのですが、そういえば日本にいた時ビジネススクールのプロジェクトマネジメントのコースで、「プロジェクトの8割は時間通りに進まない」ということを教わりました。そんなものかと思い、それ以来時間管理の対策として「Aggressive and Possible」な締切設定を心がけるようにしていたのですが、一体この研究が誰を母集団にしたのか気になるようになりました。母集団が日本人だったらこれは7割かもしれない。マレーシア人なら99.99%プロジェクトは時間通りに進まないでしょう。道理で私の住むコンドミニアム含めマレーシアのコンドミニアムの多くが部屋が穴だらけで、排水溝周りがいつも故障気味で、他の部屋の音が全部入ってきて、害虫が絶え間なく湧き出る訳です。「少し考えたらこんなのできるでしょ」と思うことが尽く出来ないのは、時間通りに物事が進まないツケを品質に転嫁しているからでしょう。マレーシアのコンドミニアムの価値は驚くほど一向に上がりません。「新築も 3年経てば 事故物件」何ていう俳句が冗談ではないマレーシア建築ですが、そんなこと誰の得にもならないのになぜ無くならないのかと言われれば、第一に文化、そしてそれと密接に関わる教育、貧富の格差、労働搾取、その辺りに落ち着きそうです。「持たざる国」と言われる日本ですが、如何にその文化的資産に恵まれているかということに気付かされる日々です。

生活面について

今月はmidsemester breakという学期の中間に当たる連休があったおかげで、特にマレーシアの国内において様々な土地に足を運ぶことが出来ました。

マレーシア最大の紅茶プランテーション地域であり高原リゾートとしても知られる「キャメロン・ハイランド」初め、世界最古のジャングルである「ムティアラ・タマンネガラ」、またジャングルの中では電気もなく、ジャングル内を移動しながら生活しているオアンスアリ族の村にも訪れるなど、マレーシアが誇る自然に挑むことを通じ、自分の経験の幅がまた一つ拡張されたように感じます。クリスマスイブには「ゲンティンハイランド」という高原地帯に広がるアミューズメントリゾートを訪れ、日本を離れて以来暫く目にしなかったような、近代的で清潔感のある空間を楽しむことが出来ました。

総じて12月は学習も生活もそれなりに良好なペースで進み、何事もなく、安定した時間を過ごせていたのではないでしょうか。

事態が変わったのは12月29日、マラヤ大学年内最後の授業日の朝でした。数日前から喉の調子の違和感はあったのですが、この日の朝には激しい頭痛と悪寒がありました。しかし29日の授業は2コマあり、そのうち一つは手違いでAttendance(出席)が2度マークされなかった授業で出席上余裕がなく、加えて過度に自分のルーティンに固執していたということもあり、朝の筋トレは(当然ですが)諦めたものの、勉強時間と設定していたタスク処理を諦めることが出来ず、足を引きずって学校に登校してしまいました。

片道2kmの通学路を、grabを使って登校しようとも一度は考えましたが、「2km程度で車に頼るなんて自分に甘えているんじゃないか」「大教室で前の席に座るならともかく、密閉空間で一緒に載せられる運転手に申し訳ないのではないか」という考えが邪魔をし、徒歩で通学することを決意します。12時授業開始のところ9時に図書館に着き、予定より1時間到着が遅れてしまったことを悔やみながら、朦朧とする中1ヶ月半後に控えた期末テスト対策を進めます。

しかしテスト対策をしようにも、体調は一向に改善しません。この日の授業は合計で4時間。1つ目の授業では目で見てもわかるほど体調が悪かったらしく、途中休憩でLecturerに声をかけられた程でした。次の授業まで2時間ほど空きがありましたが、流石にこの時点で当初の勉強スケジュールにstickすることを諦め、とにかく図書館の目立たないスペースで仮眠を取ることにしました。少しは体調も良くなったような気がして、本日最後の夕方の授業に向かいます。

夕方の授業は講義とプレゼンでした。プレゼンは特に必須ではなく、事前にLecturerにレポートを書いて提出した生徒のみが前に出て行うというものでしたが、なんとこの日にレポートを授業までに提出していたのは50人はいる授業で自分しかおらず、基本的に毎週欠かさず出しているものの、この日は少しばかり過去の自分を恨みました。頭痛が酷いから声が聞こえ辛かったら申し訳ないと前置きをした上で、この日唯一のプレゼンと質疑応答をこなして年内最後の授業を終えます。

帰る頃にはすっかり体力に自信がなく、また不運にも1つ目の授業の教室に入るタイミングでよろけて扉に足を挟んでしまい、スコール対策で2週間前に購入したサンダルが壊れてしまいました。最後に受けた授業には日本人の友達がいたので、彼女がgrabを割り勘で呼んでくれ、少し申し訳ないと思いつつもなんとか帰路に着くことができました。

夕食を家の近くのパン屋で軽く済まし、漸く自宅についてベットに横たわったとき、何かがプツリと、切れてしまったような気がしました。明日から4日間は授業もない。今は体調不良で、無理をするべき時じゃない。これまでマレーシアに来てから体調不良には(歯痛も含めると)5度なっていますが、そのように考えた途端、恐らく留学が始まって以来初めて、「全てから逃げたい」という思考になっていました。当初はそれが何を意味するのかを自分でも理解しておらず、多少気を休めている程度だと思っていたのですが、これが後々、思わぬ形で自分を苦しめることになります。

この日は無理にでも9時間くらい寝ました。年始の1日、2日にどうしてもやりたいことがあったので、この年末の2日でなんとか体調を治したいと思っていました。家にいても何もすることはありませんが、一日中外にいると体力も持たないと思ったので、自分でも驚いたことにスマホにポケモンをインストールし、昼過ぎまでずっと寝たままポケモンをしていました。食べるものもないので、そろそろ昼食、夕食が揃いそうなモールにでも行くかと2時過ぎくらいから行動を初め、この日は「気張らない」ことを意識しつつ、大学の勉強からは一旦離れて(つまり精神的には「現実逃避」をして)、カフェで就職活動の面接対策をするなどして気分転換を図りました。この際3年弱、最も愛用していたPCの電源がつかないトラブルが発生しましたが、病み上がり(というか体調不良のままですが)で気持ちの面も麻痺していたのか、この時点では何も感じませんでした。本当は大事なはずなのですが、「最も生活面で頼って使用しているPCが何の前触れもなく使えなくなった」という刺激に対し、僕の感情からは何の反応も返って来なかったのです。

この日の精神状態は少し変わっていて、体調は優れないはずなのに不思議と落ち着いていて心地よかったのです。これは今振り返ってみると、あらゆる緊張や責任感といったものを一時的に忘れており、自分を縛り上げていたものから逃避することが出来ていたからこその快楽だったのでしょう。同時に、緊張感を失うということは、不安定な環境下ではあまりに自分を脆弱なものにしてしまうのかもしれません。

少し話が変わりますが、この1ヶ月間、僕には少し気がかりなことがありました。日本語能力と思考力の低下です。英語を使用するのが当たり前の環境にいると、これは「第二言語習得」の面では良いことですが、英語で考え、英語で話す、英語で書くようになります。英語を使用するだけであれば、こちらの方が断然楽です。しかし一方、思考とは自分が扱う言語の制約を受けます。英語でしか考えなくなれば、逆に言うと「英語で考えられる範囲のことしか考えなくなる」ということになります。これに従い、気づいたときには僕の思考内容は日本にいたときに比べて遥かに幼稚で、中身のないものになっていました。何と比べてという問題ではありますが、思考を過度に簡略化しているような状態でした。

このことに気がついたのには2つのきっかけがあります。まず1つ目が先月の月例報告書の作成時でした。10月の報告書は合計で1万7千字に上りましたが、これを執筆するのに原稿自体は3時間もかかっていません。そのときはこれまでと同じように、今にしてみれば「淀みなく」日本語が出てきたという感覚です。一方11月の報告書作成時には、丸で日本語が浮かんで来なかったのです。より正確に言うと、文単位では日本語が構成出来るものの、文章全体における適切な文間の接続や、文末の表現が分からなくなったのです。加えて「言葉にしていないものが即時的に言語化される」という元々文章を書いていたときに持っていた感覚がまるで失われ、「言葉」という武器を喪失したような気持ちでした。ただこのときはまだ、「今日は調子が悪いだけかな」と、どこか楽観的に考えていました。

日本語と思考力が同時に低下しているということが確信に変わったのが、25卒の外資系コンサルティングファームの面接対策で、マッキンゼーやBCG、ベイン(界隈ではMBBと言われる)の内定を持っている現役の東大生による面接実演会にて、明らかに留学前と現在における自分の思考力の「負」のギャップを感じたことにあります。面接のお題は日本でマーケティングを研究し、ビジネスコンテストにも多数挑戦していた頃の自分にとってはそこまで難しいものではありませんでした。

①日本における書店の年間市場規模を求めよ。
②Ebookが台頭している中で、紙の書籍の売上を増加させる売上向上施策を講ぜよ。

①と②を合わせて5分、情報収集は禁止という条件であり、このお題を見た瞬間、「見せ場だな」という感覚が蘇ってきたのを覚えています。しかしいざ考えようとしてみると、全く思考が進まない。「5分あれば十分すぎる」というこれまでに培われてきた感覚と、実際に自分の頭の中で起こっていることのギャップが理解できず、頭が真っ白になってしまいました。

そもそも、この問題が難しいものなのか、難しいとしたらどこが難しいのか、どこまで自分が出来て、どこからが自分には苦手な分野なのか、といったあまりに基本的な思考プロセスが一切止まってしまい、このとき初めて、こちらに来て以来あれだけ詰め込んで勉強してきたにも関わらず、「この面接で求められている未満の思考しか行ってこなかったのではないか?」という疑念が湧き上がります。

これ以来、あらゆる面で自分の思考プロセスや日本語の扱いに負の変化が起きていることに敏感になり始めます。見当たった論文では確かに「思考は使用する言語によって制約を受ける」「第二言語の習熟度合いが浅い場合、留学によって思考力は低下し得る」ということが分かっていました。英語が完璧な日本人学生など周りで見たこともなかったのですが、思考力を低下させる結果をもたらす選択を取ったことに対し、強い自責の念を感じていました。

12月を少し超えてしまいますが、1月1日朝、この日は「和書を読み込む日」と決め込んでいました。おおよそ体調は戻ったように感じたものの、明らかに体力は落ちており、朝から少しふらついていました。まあ一番ひどい日にも登校したのだからという認識のもと、そして何故か、「今日は家にいたら辛い気がする」という感覚もあり、いつもと同じmidvalleyのモールに向かいました。

今振り返ってみれば、この時点で既におかしかったのでしょう。体力が万全に戻らない中、一度緩めた気を張り直すことは容易ではありません。しかし気を張り直さないと、いつまで経っても課題のことを忘れているわけにもいかない、そして今日は失った思考力も取り戻さないといけない。だから多少体力が落ちていても、今日から切り替えるしかない。そう考え、まだ体の芯に力が入らないような感覚のする身体に、無理やり喝を入れました。このとき何やら、筋肉に力が入り切らないような、少し浮いたような感覚がありました。

日本にいたときのような思考力を取り戻すにはどうしたらいいだろう。自分の中にあった一つの答えは、マレーシアに来てからのことを一度忘れる、というものでした。自分でも原因はわからないのですが、日本にいたときのように、何にでも知的好奇心を抱いたり、落ち着いて本を読んだり、自分の将来のことを考えてみるということが、全てムダで今はすべきことではないと感じている自分がいるのです。本を読んでいても、「無駄に時間が経ってしまうのではないか」という恐怖が邪魔をし、本を読み続けることが出来ない。将来のことを考えることも、自分のしたいことを考えることも、すべて「してはいけないこと」という心理的な障壁が邪魔をして、意思というよりは寧ろ恐怖心から、落ち着いて自分のことを考えることが出来ないのです。こうしたことに気づくこと自体、更に自分を焦らせるのですが、恐らく「自分から動かなければ自分はここで死んでしまう」「自分がすべきことはここで生き残ることと、大学の勉強をこなすこと、そして他の人に迷惑をかけないこと」という意識にあまりにも優先順位が充てられており、その他の行為や、自分にとって本来気楽な行為を行って警戒心を失うことに対し、恐怖を覚えるようになっていたのだと思います。だからこそ、今日本にいたときのような知的好奇心や思考力を取り戻すためには、空想でも心理的に安全だった当時を思い出し、過度な警戒心や責任感を解かなければならない、そう考えたのです。

日本にいたとき、自分はどうしていたか、どう考えていたか。体調を崩して「全て逃げよう」という思考に陥っていたからこそ、意外にもありありと日本にいたときのようなメンタリティを思い出し始めました。日本から離れることで思考力を失い、知的好奇心を失い、生活への警戒心のあまり集中力を失い、、、、他に何を失っているのか分からない。何を失っているのだろう。そう考えるうちに、一度受け入れたはずのマレーシアに対して、本当は積もりに積もっていたけれども、この地で安心して生きていくために隠していた、「日本人としての自分」から見たあらゆる批判や不満が吹き出てきました。一度全てから逃げて、気持ちを楽にしようという考えが、「留学生として来た以上受け入れてきた責任感」を解き放ち、責任感から解かれて束の間の休みを得られた代償に、なぜ自分がここにいるのか、全く分からなくなりました。日本にいたときの自分がどうしていたかを考えれば考えるほど、「日本にあってここにないもの」ばかりを思い出し、ご飯を温められる電子レンジ、温まったお湯が出るシャワー、ふかふかの布団、そして、なにかあっても、身体を壊してもそこにいてくれる家族が浮かび上がり、「ああ、今の俺にはこれが全部ないんだ」と。

気づいたときには、さっきまでの体調不良とはまた別の、明らかに「おかしい」感覚を覚えます。四肢に力が入らない。自分の意思次第では、このままこの場所で力と意識を失って死ぬことが出来るという感覚です。時計は既に夜の8時を回っていて、きっと空腹になりすぎたんだろうと考えて地下にあるフードコートに向かいます。

歩いているのに、まるで前に進んでいる感覚がしません。そしてこの間も、考えたくもないことが次から次へと頭を過りました。正月の夜に、トイザラスで楽しそうにおもちゃを探している子供とお父さん、そう、特に子供を見た時、正に今自分に足りないもの、「安心できる場所」を持っていることに、底しれぬ嫉妬と悔しさを覚えました。この国に来て、現地の色々な人と接してきて、楽しい思い出もたくさん作ってきたはずなのに、目に映る「外国人」、記憶の中にいる「マレーシア」の全てが敵に思えて、本当の意味で世界で一人なんだということを考えていたと思います。望んでもないのに、勝手にそんな思考が浮かび上がってくるのです。

フードコートに着いた時、一刻も早く食事を口にしないと、その場で倒れると感じました。「一人しかいないこの場所で、もし俺が倒れたら、一体誰が助けてくれる?俺はどうなる?ここで今目を閉じたら、後は死ぬだけなのか?」その恐怖と戦いながら、昨日も食べたパックの寿司とコールスローを手にとって注文し、なんとか席につきます。しかしいくら寿司を口に運んでも、美味しいという感情は愚か、ものを食べているという感覚すら覚えません。足も腕も筋肉に力が入らない。そして眠気でもなく、ただ、このまま現実を生きるのを辞めようという誘惑に駆られました。一瞬でも気を抜けば、このまま意識を失い、死んでいきそうです。絶望的な孤独、絶望的な不安感。そんなものに苦しむくらいなら、今は意識を断ちなさいと。もうあなたの心も身体もこれ以上もたないのだから。そう身体が自分に諭しているようでした。しかし今意識を断てば、再び目を覚ますかも分からない。そして今自分が倒れてもこの世界の人は誰も自分を気になどしていないという思考が巡り、一層絶望感が強くなります。

理性だけは残っていました。そして理性として、「死んではならない」ということを理解していました。そしてもし自分がここで倒れたら、「自分のことすら面倒を見きれない自分」として、自分は責任を逃れたことになってしまう。親を心配させてしまう。親や自分を信頼してくれている人を失望させてしまう。そんな恐怖心と理性が、死を望んでいる自分の身体と感情に抗っていました。普通に座っていても気を失いそうで、呼吸を荒らげないと身体に酸素が行き渡らなそうな感覚。「生きるため」に寿司を何とか口に運びますが、寿司を噛む動作でエネルギーを使い切って意識を失いそう。食べるのを止めて机からうなだれ、なんとか重力に逆らわないようにします。胸から頭にかけて支配していた、自分の意識を奪おうとする「何か」が少しだけ身体の下部に移動し、指先に到達すると、指先が震えながらしびれ、感覚を失います。「どうすればこれを止められる?これが後数分続いたら持たない、止める方法はないのか」と必死に考えました。そして今自分が一番欲してるものは、水でも食事でもなく、人の暖かさでした。

「迷惑をかけたくない」という感情を理性で押し殺し、友人と母親にそれぞれ「ちょっと体調がおかしいので、明日の朝生存確認で連絡してほしい」という連絡を送ったと思います。でもそれだけでは不安で、母親には「今電話できる?」と、家に帰るまで電話を繋いでもらうことにしました。この行動を自分が取った時確信しました。この経験もしたことのない「死と対峙する感覚」は、単に身体の問題じゃない。体力が弱まっているのももちろんだが、その身体が堪えられないほどの絶望感を感じてしまって、心が引き起こしたものだと。

電話を繋いで話しているうちに、少しづつ症状が和らいで行きました。寿司をなんとか食べきって席を立ち上がり、歩いてみると、まだ前に進んでいる感覚は朧げですが、確実に立って歩いている方が意識は持ちそうだという感覚がありました。電話を繋いでもらったまま電車に乗り、駅から歩いて、何とか家に辿り着きました。

家についてからも、何度かこのままでは自分で自分の命を断ってしまいそうと思うほどの孤独に苦しめられました。これは1日だけでなく、その翌日の2日の夜も同じでした。これまではこんなことに苦しめられたことはなかったのに。一体自分はどうしてしまったのでしょうか。

もちろん体力が低下していたからということも原因でしょう。というより、体調を崩してしまったことが元凶であることに変わりはないと思います。しかし心身ともに憔悴し切って、「今は何も考えず休もう」と、自分を突き動かし続けてきた責任感や使命感を一旦忘れ、「逃げる」気持ちになったことが引き金でした。「逃げない」「自分の責任でやり遂げる」という強い気持ちがあって、これまで何とかやってくることが出来ていたのでしょう。無自覚でしたが、常に危機感と警戒心を持っていることが、私がここで私でいる上での必須条件だった訳です。風邪をひこうが体調を崩そうが、一度強い気持ちを失ったら、待っているのはあの絶望と孤独です。他に選択がなかろうと、気を休めるということは非常に危険なのだと、今回の件で学びました。

後に、このときの自分は何に陥っていたのか、考えてみました。一番当てはまった言葉は、「自信喪失」です。引き金は一つではなかったと思いますが、アウェーな環境の中で、自分を認め、自分を褒めることをせず、ただひたすらに「自己責任」を自分に追求し続けていました。僕にとってこの留学のテーマの一つが、「一人で生きることを学ぶ」です。そのためにあらゆる「援助」、例えば家族の安心感、身を託すことの出来る社会のネットワークや社会制度などを断ち切り、本当に自分の力だけで生きることを学びたいと思っていました。敢えて旅行先に「世界最古のジャングル」などを選んだのも、「世界最古のジャングルから生きて帰ってこれたら、それは自分一人で生きる上で自信になるだろう」という考えがあったと思います。国を途上国にしたのも、そういう理由が深層心理にはありました。

一人で生きていくのですから、当然他の人に迷惑はかけたくありません。だから「死との対峙」をするまで、親にもなるべく頼らないで行こうと考えていました。家族を心配させず、電話に出るときはいつも元気でいようと考えていました。それが「心理的、金銭的、様々な点で、今の自分には助けはいらないよ」というサインになると。 “I can take care of myself”と、自分に言い聞かせていました。

しかし「自信を失う」ということは、一人で生きていく上では決定打になると痛感しました。「自信喪失」と検索をかけてみると、その症状の中に、「責任を背負えなくなる」ということが書いてあったのです。要は一人で生きて行くことを可能にしている「自己責任」を持つことが出来なくなるということです。責任を果たせる自信を失い、学問を修める自信を失い、人と言葉を交わす自信を失い、そしてこの地から生きて帰る自信を失う。「人は一人では生きていけない」この言葉の意味を身を持って体感しました。そしてその「誰か」も、無償の愛で繋がった、本当に自分が信頼出来る誰かでなければなりません。

「貧困」という議論の中で、特に先進国における「相対的貧困」の議論の中で、片親や親のいない子ども、親との関係性が悪く、愛情を知らない子どもの貧困を学びました。「貧困」とは、Human Development Index(HDI)において、「健康」「教育」「生活水準」といった指標における欠如や不足とも解釈出来ます。単に所得が少ないことだけが貧困ではありません。あのとき孤独と絶望の中で、「もし自分に親がいなかったら、もし愛情のない親の元に育ったら、この孤独と絶望がずっと続いていたんだろうか」と考えていました。私が「一人で生きていくことを学びたい」と常に感じていたのも、この弱さに自覚があったからかもしれません。私が今持っているあらゆる人としての資質の数々は、自分が受け取った愛情なくして存在もしなければ、意味も持ちません。

今月の報告書の最後は、「病気にでもなったのかい」と笑顔で声をかけてくれたいつもの食堂のおばちゃんと、不安と戦う登校の最中に笑顔で挨拶してくれた、ウォーキング中のおばあさんへの感謝で締めくくりたいと思います。


クアラルンプールから車で1時間半程度で到着するゲンティンハイランド。
高原アミューズメントリゾートであるゲンティンハイランドには、SKYWORLDSのような屋外アミューズメントパークから室内アミューズメント、ショッピングモールまで広がっている。


室内の様子。マレーシアらしく「technical issueで運行できない」アトラクションが多かったことは残念だが、清潔感やその外装、内装ともに日本と遜色ないものだった。
クリスマスイブに訪れたこともあり、イルミネーションやライブなどを楽しむことが出来た。
常夏のマレーシアだが、高原地帯ということもあって気候も涼しく、冬の人恋しさをほんの少しだけ再現することが出来た。
また数カ月ぶりにきれいな空気も吸うことが出来、暫く深呼吸が出来ていなかったことに気付かされる。
世界最古のジャングル、タマンネガラ。
川の水を吸ったジャングルが呼吸によって水蒸気を上げ、空気中の飽和水蒸気量を自らの呼吸で上回ることで雨雲を作り出し、雨を降らせ、ジャングルを潤わせている。
川の水は黒や茶色をしているが、それらは汚れではなく木々に濾過される過程で着色されるそう。
ジャングルの奥地までは川を渡っていく。
途中7度の急流に打たれ、全身凍えるほどに濡れた。


ジャングルの奥地にはオアンスアリ族が住んでいる。
オアンスアリには電気もなく、また識字力のある人もおらず、狩猟、火起こし、住宅の建設技術を用いてジャングルの中を移動しながら生活している。
写真はオアンスアリ村の村長と。
今月のヘッダーに選んだ一枚。
ジャングルの川に浮いたレストランでの食事。
正に一生に一度の体験だった。
ムティアラ・タマンネガラの最終日はジャングルトレッキング。
「安全性の問題で今年で閉まるらしい」キャノピーウォークを楽しんだ。
間に合って良かったねとガイドに言われたが、とりあえず「今落ちたらどの木に捕まって助かろうか」ということしか考えていなかった。
「マレーシアの軽井沢」とも言われるキャメロンハイランド。
マレーシアで最高級と言われるBOH Teaの原産地であり、画角に収まりきらない程紅茶農園が広がっている。


農園の高台にはBOH Tea Centreという現地で採れたBOH Teaを用いたスイーツやドリンクを楽しむことが出来る。
祝日でも連休でもないのに45分待つほどの列が出来ていた。
単にオペレーションの効率が悪いだけとも言える。

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