新型コロナ時代のシェアハウス
竹村望と申します。
私が住んでいるシェアハウスは、新型コロナの発生と同時期に満室になりました。丁度満室になるようなタイミングであったことも確かですが、なぜそのような時期にシェアハウスに来られたのか、それぞれの実情は伺えていません。いまだに新しく入った方の歓迎会もできていないですし、それくらい緩やかな繋がりの中で生活しているというのがコロナ前との大きな変化だと思います。
ところで、シェアハウスに住んでいるということをいうと、大抵の人は、珍しいという目で見ます。表面的には、生活空間を共有するということは、こういうウイルス対策の観点からいうとリスクがあるように感じられるように見られている面もあると思います。(これについては私が住んでいるシェアハウスでも管理人の方がかなり気を使って対策をしてくださり、安心して過ごすことが出来ました。)しかし、そういう表面的な部分のリスクを乗り越えるシェアハウスの意義がコロナ以後の時代にはあるのではないかと思っています。
「シェアハウス」という言葉を口にした時に、日本社会の中では一つの象徴として連想される存在であったであろう番組、「テラスハウス」の出演者である木村花さんが亡くなった大変残念な事件を聞いた時に、私は感情を共有できる存在、ということについて色々思いを巡らせました。恐らくこの事件で、シェアハウス-テラスハウスを結びつけるようなことは薄らいでいくでしょうし、そういう意味でもシェアハウスにとって一つの転換点だと思っています。この事件や、今回のコロナ騒動下における自粛警察などの動きを見て感じたのは、感情の共有ができるコミュニティが必要だということでした。それは、生活環境が抑圧された状況下に置かれた時、感情の逃げ場所がないなということを痛切に感じたからです。木村花さんの事件の引き金になったとされるSNSの書き込みについて、一口に誹謗中傷といっても様々な質のものがありますが、私には一時的な感情のはけ口が身の周りで共有できない人たちによる書き込みが多いのではないかなと感じられました。
シェアハウスと少し違いますが、昨年くらいから、週に1〜2度共通のテーマについて勉強会を開いているメンバーがいて、今回のコロナの期間中そのメンバーたちと感情を共有できる、ということが非常に有難いことでした。色々社会、政治、経済、諸々のことに対して思ったことを、誰かに話してみる、ということは大事なことだなと感じさせられました。シェアハウスにもそういう役割があるのではないかな、ということが、最近私が考えているコロナ以後のシェアハウスの役割です。
今シェアハウスに住んでいる理由を改めて考えたときに、経済的な面や、ものを必要以上に所有しなくて住むという理由に加え、恐らく、感情を共有できる存在を求めているからだと思います。
今私が住んでいるシェアハウスでは、住人間でのfacebookのmessengerでのやりとりがあります。前述したように新型コロナのことがあってから入ってきた方々とは歓迎会のようなものもやれていないですし、繋がりとしては大変緩やかだけれども、しかし何となく日常を一緒に生活している感じがそこにはあります。日頃から何となく意識し、ものを共有し、生活空間を共有している隣人がいる、というのは、今回のような大きな社会の変動があったり、我慢を強いられる状況下においては、大きな心の支えではないだろうかと思います。