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一緒に暮らしたくない実母のこと


「自分が本心で決めた道を進むと道が開ける」
息子の「お笑い芸人」の話しは前回したので、、、

今日はわたしですね。
と言っても、まとめると「ふ〜〜ん」で終わる話しです。
ですから、わたし自身も過去に遡り、なぜ?そうなったのか
ボチボチ掘り下げて行こうかと思います。
途中書けなくなったら、リフレッシュする為他の話しをします😅
でも納得いくまで続けて書いていきます。それは自分の為でもありますが誰か1人でも共感できる方の為に!必要な人に届くことをお祈りしています☺️

1月8日(日)11:50〜書き始めます!(こんなん要らんか?)


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20年前に比べたら魂の成長はしていますが
去年の7月以前のわたしは、、
すこ〜しづつは変わっては行きましたが、ゴロッと!180度変わったかわけではありませんでした。


誰しも何かしら?心に引っかかってる事ってありますよね。


私の引っ掛かりは、、、特に母です。
(父や兄弟もありますが、母に比べたらかわいいもんです。)

良いとか悪いとかではなく、、、
血の繋がった親族ですが、、、
一緒に暮らしたいと思わない人たちでした。

なぜ?

う〜〜ん、、、
合わないから!
好きになれないから!

それはなぜ?

う〜〜ん、、、
どうだろう??
合わない、好きになれない理由を1人づつお話ししましょう。


と!その前に、、、
わたしの実家は祖母が継いだ2代目洋傘店でした。祖母は20代で戦死した祖父の後、1人でお店を切り盛りし家事もこなし、3人の娘を育てて来たスーパーばあちゃん!です。苗字は違うけど娘婿(わたしの父)と一緒に暮らすサザエさん一家みたいな家族でした。(これを話さないと話が続かないので〜)

まず、母について、、、

物心ついた時(幼稚園ぐらいから)馴染みがない。
母は自営業の子供服店をして忙しいのでわたしはおばあちゃんっ子でした。

あとで聞いた話ですが、祖母の洋傘店の半分を子供服店にしただけで、経営のノウハウを勉強したこともなく、何の苦労もなく「大人のお店屋さんごっこ」をしていた感じです。
開店資金はもちろん、家事全般や子供(まる子)の世話は全て祖母に任せ、お店屋さんごっこを楽しんでいたようです。
母は自分を綺麗にしてお店の洋服を売るだけ。洋服に関してのセンスはあったので、母もその気になりお店屋さんごっこが楽しくて仕方なかったと言っていました。

これはわたしの勝手な推測ですが、母は昔から自分の気に入らない事があったらヒステリックになり泣き喚き怒るので、初めて産んだわたしに対してもヒスが酷く祖母は見兼ねて、「子供はワタシが見るから、お店をしてみないか?」と子供服店をやらせたのではないかと思います。

両親の新婚当初、母の妹2人と同居していて、家事や子守は誰かがやってくれる状態でした。何もしない母を見ていても父はその当時サラリーマンのマスオさん状態で何も文句が言えなかったんでしょう。

わたしはそんな事はいざ知らず、大家族で商売人の家だったので人の出入りも多くいろんな人との関わりを持ち、お陰様で誰にでも懐いて可愛いがられる子供時代でした。

母は何もかも恵まれ過ぎていたのかもしれません。
元々自由気ままな人でしたが、周りの援助や優しさが拍車を掛けたのかもしれません。

おばあちゃんっ子で誰からも好かれたわたしは、人を疑うことを知りませんでした。母は物心ついた時から、ヒステリックや嫉妬が強く怖くて近寄りがたい人でしたが、わたしは祖母が居たお陰で疑いや恨むことは一切しませんでした。

幼稚園の送り迎え、お弁当作り、家での会話、お風呂、就寝は祖母。
たまの運動会や学芸会、お誕生日会は母の出番!わたしは、祖母に来てもらいたかったのに…(小さいまる子の思い)。

小学校へ上がる前の年の4月に弟が生まれました。

初めての兄弟。
弟はよく喋り可愛いのでたちまち人気者!
わたしは可愛くて仕方なかったのを覚えています😍

そんな弟が小学校へ入る前、、、(小4)
わたしは小さい弟にひらがなやカタカナの書き順を教えていました。
お姉ちゃんとして張り切っていました!

そこへ、お店から戻ってきた母がわたしに言いました。
「そんな変な教え方しんといて!!〇〇ちゃんが覚えたらどうすんの!?」


わたしはただ、ただ、、ショックで頭が真っ白になりました。
何がショックって、、、
わたしは、「ダメなお姉ちゃんなんだな」って。。。


今もこの場面が脳裏に浮かびます。
恥ずかしながら、1人だといまだに涙が溢れます。
ヒステリックに言われた事は嫌だったけど何よりも
自分がダメだと❌を付けられた事がショックでした。


その後色々と❌を付けられ、わたしのやりたいこと、好きなこと(好きな人にも)に文句を言われ否定され❌が増えていきました。

まだこの時は祖母が生きていたので、わたしは救われました。
祖母はわたしの心の母であり、支えであり癒しでした。


でも16歳の時祖母は肝硬変のため動脈瘤破裂で呆気なく66歳の若さで亡くなりました、66歳でした。20代で母子家庭になり苦労に苦労を重ねて子供の行く末ばかりを気にしていた祖母。
美人で、みんなに好かれ、思いやりのある優しい人でした。商売を女手一つでやり切り!なんでも器用にできる人。
わたしが珈琲麻袋で日傘を作ろうと思ったのも傘屋だった祖母に一つでも恩返しをしたいと思ったからです。(高いけど日傘が1番人気です!)

隠れ蓑だった祖母が亡くなり、16歳からわたしは両親や兄弟とどう付き合うかを迷いました。家を出る方法は結婚しかないと22歳で結婚しました。


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と母親と結婚するまでのわたしはこんな感じでした。
嫌いではないけど、合わない人とは一緒にいたくないものです。

結婚後のわたしは、家族と別れることで距離を置きましたが、親戚の付き合いは続きます。盆、正月は子供を連れて帰るのは恒例ですが、行きたくないのに行く事は義務でしかなく、それを続けることでまた新たな問題も続々と起こります。母についてはあり過ぎて続編、、または続々編(笑)を書きますが、、想い出がエグ過ぎて💦今日はこれで終わりにします😁

でもね、これってわたしがずっと、うやむやにしてきた事なんですよね。
エグいなぁって出来事に我慢して自分に蓋をして忘れようとしていたのです😔そりゃ、体調も優れないし、具合悪くもなりますよね!心が健康だと不思議と体も健康になっていきますので現在しんどい方のに少しでも参考になればと思い書いています。

現在わたしは去年4月に大阪に(元京都)引っ越しして一人暮らししています。
そう思い立つまで随分時間がかかり紆余曲折ありましたが、今は心の底から良かったと思うようなことばかり起こります✨これから先も人生はまだまだ続くからこそ!
苦しんでおられる方に言います!どんな窮地にいても大丈夫です!

・・✳︎・必要な人に届け〜〜・✳︎・・

と言うことで今日はこの辺で〜🖐️✨
読んでくださりありがとうございました😊

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