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ハンディキャップと弁論大会

 連日テレビで放送されるパラアスリートの活躍。
 純粋にスポーツ選手として、先日まで行われていたオリンピック選手同様、世界を極めるトップアスリートの方々だ。

 ここで、ふとパラリンピックのパラってなんだろう??と疑問におもったので、ちゃちゃっと検索をかけてみると、パラサポWEBに答えが書いてあった。
 ライトノベルなどでおなじみの、平行世界なんて言葉を意味する「parallel」のギリシャ語『para』から来ているそうだ。ここから「もうひとつのオリンピック」という意味合いでこう呼ばれるらしい。

ーーさて、ここからはパラリンピックとは全く関係のない、わたしの中学生の時の話をしよう。

 わたしはひょんな事から中3最後の「校内弁論大会」にクラス代表として出ることになった。テーマは特に決まっていなかったため、クラス予選では「地球温暖化」についてなんとなく世間が認識し始めた頃だったこともあり、適当にそれについて書いた。
 しかし、いざ、クラス代表に選ばれてしまうと、「予選」用とは別の「決勝」用のテーマについて、改めて別の話題を書くことになっていた。後出しジャンケンもいいところである。
 そんなで、新しいテーマに頭を悩ませていたところ、その当時誰よりも信頼していたごく歳の近い大人から助言があり、

「今の自分のことについて、思うことを書いてみたらいいんじゃない? だって、弁論大会って主張の場でしょうに。対して興味もないテーマを書いてもスピーチはできないよ?」

 と、言われたので、素直にその時の自分の状況をしたためる事にした。

 1年、2年と仲良くなったそれぞれの友人たちが、3年生最後の年に、なぜか同じクラスに集結し、わたしを通してそれはそれは大きなコミュニティが生まれていた。そんなわたしを担任は「ムードメーカー」と称していた。
 仲良くなった人たちが仲良くなってくれる。それがとても嬉しくて楽しい毎日だった。

 しかし、夏も終わりに近づく頃、その友人らが突如結託し、村八分よろしく、わたしをいないものと、し始めた。
 授業中には誇張したわたしの似顔絵と、バカにした文章が書き込まれた忌まわしきメモ用紙が回り始め、たまたまそれを目にしてしまったわたしは、とてもショックを受け、腹が立ち、それから、なんだか何もかもどうでもよくなった。この時の気持ちは今でも忘れない。

 で、信頼していたその大人は、この事について書けというのだ。そして、それを全校生徒の前で目一杯スピーチしてしまえばいいという、なかなかのハイセンスなアドバイスをくれたのだ。

 それから私はどうしたら今の状況や、実際に組織的無視をされる側の気持ち、虚しさ、そして、彼らの行為の意味を全員に向けて問えるのかを考え、必死に文章を書いた。
 そして、添削を続け、自分の持ち時間内にいかにインパクトをつけ、センセーショナルに伝えることができるかを研究し、元々声の演技に興味があった事もあり、わたしは、日夜練習を重ね、緊張の中、本番を迎えた。

 結論から言うと、優勝し、学校代表として地区大会に出場(後にもっと大きな大会で優勝した)したのは、ひとつ下の学年の、小児麻痺を患い、手足にハンディキャップをもった生徒だった。たしか「障害者と周りの目」みたいなタイトルだった。

 どちらにしても順位に全く興味のなかったわたしは、とりあえずやりきった達成感でいっぱいでとても満足していた。

 そんなわたしのところに、数人の先生がやってきて、

 「いやあ、惜しかった。スピーチも内容も本当によかった。(障害者の)彼がいなかったら、本当はあなたが一番だった」

 と告げられた。
そして、障害者の実体験に基づく弁論の方がわかりやすく人の心に響くんだよね。と、ポツリと漏らした先生たちに、わたしはモヤモヤした。

 と、言うことは、わたしを含めた他のクラス代表たちは、どんなに雄弁に語ろうとも、運動機能に全く不便ない生活を送っている時点で勝ち目は無かった。と、言うことにならないか?

 確かに、おっしゃる通り、障害者であることでわたしたちには想像もつかない悩みや辛いことがたくさんあるだろう。
 でも、悩みの形や角度は違うかもしれないが、わたしたちも同じくらい悩みがあったし、頭を掻き乱したり、何かを蹴飛ばしたり、叫びたくなる位、どうしようも無い、どうしたらいいかわからない気持ちがあった。
 同じじゃないのかな、障害をもつ彼も、わたしたちも。そう、思った。 
 と、同時に、障害者である彼の主張は先生たちには全くもって届かなかったんだと感じて、更にモヤモヤした。
 だって、彼の弁論の内容は、特別視される事に対して嫌悪を抱くという内容だったはずだったから。

 わたしはたぶん、その時生まれて初めて
「そうですね」と、愛想笑いをした。

 人はどこか欠けてるところがあったりする。
先生たちは多分わたしたちに対する「配慮」が欠けていた。そして、そういう事ができなくなるのを「盲目」という。

だから、わたしはその時、そんな風に選ばれた彼を、少し気の毒に思った。

 そんな事もあり、わたしの人生で最初で最後の弁論大会スピーチは、モヤモヤしたまま終わりを迎え、正直、自分の弁論の内容も友人関係もどっちでも良くなっていた。
 でも、おかげさまで、結託した友人たちには十二分に伝わったようで、バツの悪そうな顔して頭を下げてきた。当然、わたしにも悪いところがあり、そんな事になったのだろうから。と、表向きは、もう気にしないよ。と、言っておいた。
 ただ、わたしも性格が反り返っているので、卒業するまで、それ以降も、元のようには彼らを見ることはできなかった。
 少しだけ時間が経ってから、当時唯一中立でいてくれた、とある友人が、どうして彼らがわたしを攻撃しはじめたのか、本当の理由こっそりと教えてくれた。どうやら、結託友人団の中心人物(団長とよぼう)の好きな人が、わたしのことを気に入っているという事を知り嫉妬したことが発端だった。

 とんでもなく迷惑、とばっちりなお話であり、なんとも中学生らしい、ばかばかしい理由だったが、おかげで弁論大会のネタにできたので、今思えば、面白い体験だったなあ。と、思う。

 ついでに言えば、あの時、優勝しないで本当に良かった。こんなこと大きな声で大勢の前で叫びたくない(笑)
 だから、彼には申し訳ないが、先生の気持ちを引きつけてくれて、いまでも感謝している。



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