見出し画像

ヴィガノ大司教、トラディティオーニス・クストーデスへの対応で司祭に助言(2021年8月6日)

【編集者注】ヴィガノ大司教が「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)に関するビデオメッセージ

(日本語訳はここ:前半後半)を発表なさった後、

LifeSiteNewsとCFNの寄稿者であるマイケ・ヒクソン博士は、聖伝のラテン語ミサをやめさせようとする試みに関して、司祭と信徒へのアドバイスを明確にしてくださるように大司教様にお願いしました。大司教様は8月5日に回答してくださいました。

まず、大司教様は、「聖なるいけにえを捧げる権能を持つ者は誰であれ、古代の儀式で聖なるいけにえを捧げる権利を持っています…」と確認なさっています。ご自分の典型的な慎重さを示されて、大司教様は、ミサに関する制限に対応する際には、「客観的な要素とさまざまな状況の両方を考慮しなければならないのは明らかです…」と助言なさっています。その結果、「司祭は、自分の行動が、公正で直接的な対決をすることでより効果的になるのか、それとも、慎重に隠れて行動する方がより効果的になるのか、を考えなければなりません」としています。しかし、司教のその不当な決定に公に従わないことは「私たちが従わなければならない聖人たちの行いに最も一致するものです」と指摘しておられます。

大司教様はまた、父親のように振る舞おうとする教区長がいる場合、司祭は教区長に聖伝のミサを自分で捧げるように勧めるべきだと助言なさっています。なぜなら、そうすることは「教区長の心とその司祭としての霊魂の最も奥深い琴線に触れることで、教区長に理解してもらう方法となり得」るからです。

この回答は、LifeSiteNewsに掲載されたものです。

*****
2021年8月5日雪の
聖母の大聖堂(聖マリア大聖堂)の奉献の祝日

親愛なるマイケ、
説明を求めるあなたのご依頼について、少し考察をお送りします。それが私の考えをさらに明確にすることを期待しています。次が【あなたが問題にしている】その文章です。

私たちの義務は、天主の役務者としても、素朴な信者としても、このような濫用に対して確固とした穏やかな抵抗を示し、超自然的な精神で私たち自身の小さなカルワリオの道を歩いていくことです。他方で、人々の新しい大司祭と律法学士は、私たちをあざけり、狂信者としてレッテルを貼ることになるでしょう。私たちの謙遜、私たちに対する不正を黙って捧げ物とすること、私たちが告白している信経に矛盾しない生き方という模範こそが、カトリックのミサの勝利と多くの霊魂の回心をもたらす恵みを勝ち取るでしょう。

あなたは私にこうお尋ねになりました。「司教から圧迫されたとき、司祭や信者はどうすべきでしょうか? 密かに行動するのでしょうか、それとも公の不従順をもって公に断ち切るのでしょうか?」。

まず第一に言わせていただくと、教皇聖ピオ五世のミサを捧げ続けることで、司祭は不従順の行いを何もしておらず、それどころか、天主に認められた権利を行使しているのであって、この権利は教皇でさえも取り消すことはできません。聖なるいけにえを捧げる権能を持つ者は誰であれ、古代の儀式で聖なるいけにえを捧げる権利を持っています。これは、トリエント典礼を公布した使徒的憲章「クオ・プリームム」(Quo Primum)で、教皇聖ピオ五世が荘厳に宣言したことです。

このことは、議論の余地のない事実として、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)によって繰り返し述べられています。これらの条項に反する者は誰であれ、「全能の天主[の憤慨]及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ」(クオ・プリームム)。

聖伝のミサを捧げることを制限したり禁止したりすることに対する対応は、客観的な要素とさまざまな状況の両方を考慮しなければならないのは明らかです。司祭がトリエント・ミサを捧げると聖職の停止を平気で科すような、古代の典礼様式の不倶戴天の敵が教区長であるときには、特にそのニュースがメディアで広まった場合には、公の不従順が教区長の権力濫用を明らかにする方法になるかもしれません。高位聖職者たちは、自分の行動についてメディアに取り上げられることを非常に恐れており、新聞に掲載されることを避けるだけのために、教会法上の措置を控えることもしばしばあります。

したがって、司祭は、自分の行動が、公正で直接的な対決をすることでより効果的になるのか、それとも、慎重に隠れて行動する方がより効果的になるのか、を考えなければなりません。私の意見では、第一の選択が最も直線的で透明性が高く、私たちが従わなければならない聖人たちの行いに最も一致するものです。

もちろん、自分の司祭がトリエントの典礼様式を捧げることを自由にさせてくれる理解のある司教の場合もあるでしょう。司教に役人ではなく父親を見いだすことができるのを知っていれば、自分の司教に心を開いて話すことは確かに重要です。残念ながら、ほとんどの場合、それは寛容さの問題であり、聖伝の道についての励ましにはほとんどならないことを私たちはよく知っています。しかし、場合によっては、聖ピオ五世のミサを自分で捧げるように教区長本人を招くことは、教区長の心とその司祭としての霊魂の最も奥深い琴線に触れることで、教区長に理解してもらう方法となり得ます。このミサは、使徒継承の儀式で聖なるいけにえを捧げるという良き機会を得る天主の役務者のために取っておかれた宝なのですから。この「奇跡」が起こると、司教は司祭の味方になります。なぜなら、聖伝のミサを好ましいものとさせる知的かつ理性的な面に加えて、このミサの霊的かつ超自然的な次元を直接体験し、また、このミサがそれを捧げる人々の恩寵の生活にどのように影響するかを体験するからです。

私の言葉によって、前回の演説では展開されなかった点が明確になることを期待しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?