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[後編]ヴィガノ大司教、教皇フランシスコによる全時代のミサの盗みに応える(2021年7月31日)

「通常の小教区の信徒や遠く離れた信徒までもが聖伝のミサの教会に来るようになっても驚くことではない。私たちの義務は、権力の濫用に対して確固とした抵抗を示すことだ。」

教会の石、祭壇の大理石、円柱、丸天井は叫んでいる。公会議の結果として、天主の礼拝のために奉献されたこれらの石が、今日、放棄され、砂漠化させられ、冒涜され、駐車場やスーパーマーケットに変えられているからだ。私たちも叫ぼう。

「ヴィガノ大司教、教皇フランシスコによる全時代のミサの盗みに応える」の続き(後編)です。

他の不一致

教会の歴史において、公会議あるいは典礼改革が、それ以前のものとそれ以後のものとの間の断絶点となったことは一度もありませんでした。この二千年の間、ローマ教皇たちは、自分たちより前の教会と自分たちが統治しなければならない教会との間に、意図的にイデオロギー的な境界線を引き、自分たちの前任者の教導権を無効にしたり、それと矛盾させたりしたことはなかったのです! そうする代わりに、教理上の誤謬を慎重に曖昧な表現の背後にほのめかした人々や、勝利を確信した者の大胆さをもって、第二バチカン公会議を「教会の1789年(フランス革命)」、「預言的」で「革命的」なイベントとして宣伝した人々の両方では、「前」と「後」は、強迫観念になりました。

2007年7月7日以前、聖伝の典礼様式の普及に対して、有名な教皇庁の式典担当者は辛らつにこう答えています。「もう後戻りはできない!」と。しかし、「スンモールム・ポンティフィクム」の公布にまで後戻りすることができるのは、フランシスコを見れば明らかです。では、どのようにして! それが権力を維持するため、また善が普及しないようにするために役立つならば、です。それは、パンデミックの茶番劇の「何もかもが以前のようにはならない」という叫びを不吉に繰り返すスローガンなのです。

フランシスコは、トリエント典礼に結びついている信徒と、主に習慣や諦めから改革された典礼に順応している信徒との間の分裂とされるものがあることを認めていることが、明らかになっています。彼は、モンティーニの典礼様式(パウロ六世の新しいミサ)より客観的に優れている典礼様式(聖伝のミサ)に完全な権利を認めることで、この分裂を癒やそうとはしませんが、それは、まさに聖ピオ五世のミサの存在論的な優位性が明らかになるのを防ぐためであり、改革された典礼とそれが表す教理に対する批判が出てくるのを防ぐためです。そして、聖伝のミサを禁止し、分裂を招くものとしてレッテルを貼り、インディアン居留地のようなところに限定して、その普及を可能な限り制限しようとしています。そして、公会議革命が不幸な前身となった「キャンセル・カルチャー」の名の下に、完全に消滅させるつもりなのです。ノブス・オルド(新しいミサ)と第二バチカン公会議が、ヴェトゥス・オルド(聖伝のミサ)および永遠のカトリックの教導権との対決に容赦なく敗れたことに耐えられず、採用できる唯一の解決策は、聖伝の痕跡をすべて消し去り、単純化されない80歳代の人々あるいは常軌を逸した人々の懐古趣味的な避難所に追いやり、あるいは、少数の原理主義者のイデオロギー的マニフェストとして、これを口実として提示することです。

一方で、大衆を教化するために「嫌になるほど」(ad nauseam)何度も繰り返される、システムに合致したメディア用[宣伝]版を構築することは、教会の領域だけでなく、政治や世俗の領域でも繰り返される要素です。それにより、ディープ・ステートとディープ・チャーチが、同じ方向に走る二つの並行した線路にほかならず、その最終目的地は、自らの宗教と預言者を擁する新世界秩序(New World Order)であるということが、当惑にさせる証拠をもって示されています。

分裂は明らかに存在していますが、それは全時代の教理に忠実であり続ける良きカトリック教徒や聖職者からではなく、むしろ正統性を異端に、聖なるいけにえを兄弟愛のアガペーに置き換えた人々から来ています。その分裂は今日では新しいものではなく、1960年代にまでさかのぼります。そのとき、「公会議の精神」、この世への開かれること、諸宗教間の対話ということが、二千年のカトリックをわらくずに変え、教会の全体を革命化させ、言うことを聞かない人々を迫害し、追放しました。しかし、教理的・典礼的な混乱を教会の中心に持ち込むことによって達成されたその分裂は、当時はそれほど嘆かわしいものとは思われませんでした。他方で、完全な背教状態にある今日、第二バチカン公会議とノブス・オルドの明確な断罪を求めるのではなく、大いに謳われている多面的な多元主義の名の下に、「特別の形式の」ミサの単な単なる許容を求める彼らの方が、逆説的にも、分裂的であるとみなされているのです。

重要なことは、文明世界においてさえ、少数派の保護は、彼らが伝統的な社会を破壊するのに役立つ場合にのみ有効であり、他方でそのような保護が誠実な市民の正当な権利を保証する場合には無視されるということです。そして、少数派の保護を口実に、多数派の善良な人々を弱体化させることだけが意図されていたことが明らかになっている一方、多数派が腐敗した人々で構成されている今、少数派の善良な人々を容赦なく粉砕することができるのです。最近の歴史には、この点に関して照らしを与えてくれる前例には事欠きません。

「トラディティオーニス・クストーデス」の専制的性質

私の意見では、自発教令のこの点、あの点が気になるのではなく、押し付けられた決定を正当化するために提出された論拠の実質的な偽りを伴う、全体的な専制的性質が気になります。

権威がその存在意義(raison d’etre)を持っているのは、教会を通して信者に授与される恩寵を妨げたり制限したりするのではなく、むしろそれらの恩寵を促進するためです。権威は、プロテスタントに好意を示すような典礼様式(新しいミサ)によって天主の御稜威から栄光を奪うのではなく、むしろその栄光を完璧に表現するためにあります。また、教義上や道徳上の誤謬をまき散らすのではなく、むしろそれらを断罪し根絶するために、その存在理由があります。そうあるべき権威による権力の濫用によって、つまずきもまた与えられています。ここでも、世俗の世界で起こっていることとの類似性があまりにも明らかです。私たちの世俗の支配者は、私たちの高位聖職者がそうであるように、権力を濫用し、法の最も基本的な原則に違反して規範や制限を課しています。

さらにまさに権力を握った者こそが、聖俗どちらの面でも、市民や信徒といった、一般大衆からの事実上の(de facto)承認にすぎないものを利用することが多いのです。しかも、権力を奪う手段が、法律の文字面はともかく、少なくとも法の精神には違反しているにもかかわらず、です。

イタリアの場合は、選挙で選ばれたわけではない政府が、イタリア憲法とイタリア国民の自然権を侵害して、ワクチン接種の義務とグリーンパス【ワクチン・パスポート】について立法していますが、教会が置かれている状況と、似ても似つかないとは思われません。何故なら、辞任した教皇に代えて、ザンクト・ガレン・マフィアと超進歩的な司教団によって選ばれ、あるいは少なくとも評価され支持されているホルヘ・マリオ・ベルゴリオが教皇に就任したからです。世俗、宗教の両方の権威には、深刻な危機が存在することは明らかであり、その危機において、権力を行使する者は、彼らが保護すべき人々にまったく反しており、何よりもその権威が確立された目的に反しています。

ディープ・チャーチとディープ・ステートの間の類似

世俗社会も教会も、前者をフランス革命で、後者を第二バチカン公会議で襲ったのと同じ癌にかかっていることが理解されてきたと思います。どちらの場合も、制度を組織的に破壊し、外見や位階構造、強制力を維持しながらも、本来の目的とは正反対の目的を持った偽物に置き換えるのですが、その基盤には、フリーメーソン思想があるのです。

この時点で、一方においては市民が、また他方においては信者が、どちらも国家と教会を統治する天主の権威に従うために、地上の権威に不従順でなければならないという状態に陥っています。明らかに「反動派」、つまり、権威の倒錯を受け入れず、キリストの教会と祖国に忠実であり続けたいと願う人々は、いかなる形であれ、容認できない反体制分子とされ、したがって彼らは、「公共の利益」 -- これはもはや共通善(bonum commune)ではなくその逆である -- の名の下に、信用を失わせられ、委縮させられ、脅迫され、権利を奪われなければならないのです。

支配者らが消滅させようとしている世界の少数の生き残りは、陰謀論、聖伝主義、原理主義のいずれで非難されようとも、世界統一計画の実現に向けて最も重要な瞬間に、この計画達成に対する脅威となります。だからこそ、権力はこのように堂々と、大胆に、そして暴力的に反応しているのです。詐欺の証拠は、より多くの人々に理解され、彼らを組織的な抵抗に導き、主流メディアが押し付ける沈黙の壁と猛烈な検閲を打ち破る危険性があるからです。

したがって、私たちは、権威当局の反応の激しさを理解し、強力で断固とした反対運動に備えることができ、濫用的かつ不法に私たちに否定された権利を引き続き利用することができます。もちろん、グリーンパスを持っていないと旅行に行く機会が与えられなかったり、司教が自分の教区の教会で全時代のミサを行うことを禁止したりして、私たちはそれらの権利を不完全な形で行使しなければならないことに気づくかもしれません。しかし、権力の濫用に対する私たちの抵抗は、主が私たちに与え続けてくださる恩寵、特に専制政治の時代には欠かせない剛毅の徳を頼りにすることができるでしょう。

彼らを恐れさせる「普通のこと」

反対派への迫害がいかに組織化され、計画されているかを知る一方で、反対派を断片化させているのを認識しないわけにはいきません。ベルゴリオは、反対派の動きをすべて封じ込める必要があることをよく知っています。特に、内部分裂を引き起こし、司祭や信者を孤立させることによって。教区の聖職者、修道者、エクレジア・デイ団体の間の実りある兄弟愛的な協力関係は、ベルゴリオが回避しなければならないものです。なぜなら、それは古代の典礼様式に関する知識の普及を可能にし、また宣教における貴重な助けとなるからです。しかし、これはトリエント・ミサを信者の日常生活の中で「普通のこと」にすることを意味し、フランシスコにとっては許容できないことです。そのため、教区の聖職者は教区長のあわれみの下に取り残される一方で、エクレジア・デイ団体は「聖職者省」の権威の下に置かれ、すでに決定的になった運命への悲しい前奏曲となっています。まさに憎まれた聖伝の典礼や、規則の忠実な遵守のおかげで、多くの召命に恵まれ、育まれてきた、繁栄している修道会に降りかかった運命を忘れてはなりません。

だからこそ、ミサを捧げる儀式に関するある種のこだわりは、コミッサール【旧ソ連の政治・行政官僚】の規定を正当化し、ベルゴリオのゲームに参加する危険性があるのです。世俗社会においても、反対派の行き過ぎた行動を助長することこそが、権力にある人々が彼らを疎外し、彼らに対する抑圧的な措置を正当化することになります。ワクチン反対運動の事例を考えてみると、少数の人々の風変わりさや矛盾を強調することで、市民の正当な抗議行動の信用を落とすことがいかに容易であるかが分かります。また、憤慨してワクチンセンターに火をつけた少数の人々を非難することはあまりにも簡単で、ワクチン接種を受けなければ健康パスポートに烙印を押されたり解雇されたりするのを避けるために、街頭に出た何百万人もの誠実な人々影を投げかけてしまいます。

孤立化・非組織化の状態にとどまってはならない

私たち全てにとって、もう一つの重要な要素は、私たちの構成した抗議行動を多くの人に見えるようにし、公的な行動へ向けての一種の共同作業を確保する必要があることです。「スンモールム・ポンティフィクム」の廃止により、私たちは20年前に戻ったように感じます。

ベルゴリオがした教皇ベネディクトの自発教令を取り消すという不幸な決定は、失敗する悪い運命にあるのは変わりません。何故ならこれは主ご自身がその最高司祭であり大司祭である教会の霊魂そのものに触れる[敏感な問題だ]からです。そして、私たちがここ数日で安心して見ているように、全司教団が、霊魂に平和をもたらすことには確実に貢献しない権威主義の形態に受動的に喜んで従うとは限りません。教会法は一定の条件の下で、司教たちが自分たちの信徒のために特定のあるいは普遍的な法律を免除することができると保証しています。第二に、天主の民は「トラディティオーニス・クストーデス」の破壊的な性質をよく理解しています。そこで彼らは本能的に、進歩主義者らの中でこのような不承認を起こすものを知りたいと思っています。

そのため、通常の小教区生活を送っている信徒や、教会から遠く離れた信徒までもが、聖伝のミサが行われている教会に足を運ぶようになったとしても、驚くことはありません。私たちの義務は、天主の役務者としても、素朴な信者としても、このような濫用に対して確固とした穏やかな抵抗を示し、超自然的な精神で私たち自身の小さなカルワリオの道を歩いていくことです。他方で、人々の新しい大司祭と律法学士は、私たちをあざけり、狂信者としてレッテルを貼ることになるでしょう。私たちの謙遜、私たちに対する不正を黙って捧げ物とすること、私たちが告白している信経に矛盾しない生き方という模範こそが、カトリックのミサの勝利と多くの霊魂の回心をもたらす恵みを勝ち取るでしょう。私たちが多くのものを受けているからこそ、多くのものを要求されることを忘れないようにしましょう。

原状回復(Restitio in integrum)

「あなたたちの中に、パンを欲しがる子に石を与え、魚を欲しがる子に魚の代わりに蛇を与える…父親はいないだろう」(ルカ11章11-12節)。今、私たちはこの言葉の意味を理解することができ、「霊魂のない典礼」という石、堕落した教理という蛇、混ぜ物の入った道徳というサソリを私たちに与える父の冷笑を、心の痛みと苦悩をもって考えます。そして、主の群れを、ノブス・オルドを受け入れる人々と、父祖たちのミサに忠実であり続けたい人々との間で分断するという段階にまで到達しているのです。

私たちの主がロバの子に乗ってエルザレムに入られ、通過されるとき、群衆が外套を広げて敷いていたため、ファリザイ人が主にこう求めました。「先生、弟子たちをしかってください」。主は彼らにこう答えられました。「私は言う。彼らが黙ったとしても石が叫ぶだろう」(ルカ19章28-40節)。この60年間、私たちの教会の石は泣き叫んでおり、教会から聖なるいけにえが二度も排除されました。祭壇の大理石、バシリカの円柱、大聖堂の高い丸天井も同様に叫んでいます。なぜなら、守ろうと言い張っているあの公会議の結果として、まことの天主の礼拝のために奉献されたこれらの石が、今日、放棄され、砂漠化させられ、あるいは忌まわしい典礼様式によって冒涜され、あるいは駐車場やスーパーマーケットに変えられているからです。私たちも叫びましょう。私たちは、天主の神殿の生ける石です。今日では言葉を発しない主の弟子たちに声を与えてくださるように、また、主のぶどう園の管理者に責任がある耐えがたい盗みが弁償されるように、主に向かって信仰をもって叫びましょう。

しかし、その盗難が弁償返還されるためには、私たちから盗まれた宝に、私たちがふさわしいことを示す必要があります。そのためには、生活の聖性によって、聖徳の模範を示すことによって、祈りや頻繁なご聖体の拝領によって、このことを行うよう努めましょう。そして、聖香油の意味をまだ知っている何百人もの良き司祭がいることを忘れないようにしましょう。その聖香油で、彼らはキリストの役務者、天主の神秘の分配者として叙階されたのです。主は、祭壇がたとえ地下室や屋根裏に建てられていても、私たちの祭壇に降りてきてくださいます。Contrariis quibuslibet minime obstantibus.(妨げになる何事があったとしても)。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2021年7月28日
殉教者聖ナザリオとチェルソ、
教皇殉教者ヴィクトル一世、
教皇証聖者イノチェンチオ一世の祝日


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