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スーピッチ枢機卿はシカゴの「王たるキリスト宣教会」を停止する。ヴィガノ大司教の反論(2022年7月20日)

https://remnantnewspaper.com/web/index.php/articles/item/6055-cardinal-cupich-cracks-down-on-the-ick-in-chicago-vigano-responds

信者、司祭、司教には、トリエント典礼が教理、道徳、霊性の不可侵の防波堤であり続けるよう、一歩も譲らずに要求する神聖かつ緊急の義務がある。「私たちは人間より天主に従わねばなりません」

2022年7月20日(水曜日)
カルロ・マリア・ヴィガノ

シカゴ大司教区における「大司祭・王たるキリスト宣教会」の典礼挙行の停止についての宣言

ブレーズ・スーピッチ枢機卿は、ベルゴリオ教会の役人の特徴である官僚的権威主義をもって、シカゴ大司教区で役務を行う「大司祭・王たるキリスト宣教会」(Institute of Christ the King Sovereign Priest)の司祭たちに、古い典礼によるすべての公的職務を7月末から停止し、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)に従って彼らに与えられた特権を取り消すように命じました。

誰の目にも明らかなのは、この決定が、教会のいかなる権威であっても否定しえない権利を行使することを妨げるという意向を持っていることです。ましてや(a fortiori)カトリック教会の不変の教導権にあからさまに対立する教理的かつ典礼的原則を受け入れることを、その条件としていることからさらに明らかです。

実際、洗礼を受けたすべての人は、ベネディクト十六世の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」が決して廃止され得ないと認めた形式で、聖なるミサにあずかり、秘跡を受ける権利を持っています。シカゴの信者からその権利を奪うことは非常に重大な権力の濫用であり、またスーピッチの決定がローマのサンヘドリン【ユダヤ最高法院】によって黙認されているという事実は、この教区長による横取りに加えて、使徒継承のミサという「逆らいのしるし」を、カトリック世界全体にわたって取り消すという意向を持つ、さらに広い計画があることを裏付けています。そのミサの存在自体が、数十年にわたる教理的、道徳的、規律的な逸脱を無言で非難するものであるため、逆らいのしるしなのです。

ベルゴリオが聖伝を憎んでおり、また、カトリックにとどまりたい人や、信仰から棄教することを望まない人を嘲り、信用を落とす機会を逃さないことは、周知の事実です。同様に、彼の協力者や側近に対する好みもよく知られています。彼らは皆、同性愛、権力欲、金銭問題での腐敗によって団結しています。従って、彼の弟子の一人――連続性的虐待者のマカリックおよびドナルド・ワールやジョゼフ・トービンのような議論を呼んだ高位聖職者たちの親友の一人【スーピッチ】――が、恩人の命令を忠実に実行することを示すことによって、シカゴ大司教区への不当な昇進の恩返しをしたとしても、驚くには当たりません。この昇進は、思い出していただきたいのですが、私が駐米教皇大使として聖座に仕えていたとき、強く反対したものであり、またジョゼフ・ベルナルディン枢機卿の、性犯罪に関する証拠の隠蔽にスーピッチが関与していることに関して「チャーチ・ミリタント」(こちらこちら)が行った憂慮すべき暴露の後、今日さらにスキャンダラスに見えるものです。2019年、スーピッチは、シカゴ大司教区が所有していたベルナルディン大司教とその共犯者に関する有罪となる証拠書類を引き渡さなかったとして、連邦当局とイリノイ州司法長官から調査を受けました。また、私たちに分かっていることは、スーピッチが進歩主義の擁護者であるベルナルディンの列聖を望んでいる(こちら)ものの、実際にはベルナルディンの虐待被害者の一人による非常に深刻な告発があり、その告発が、1957年に若き司祭ジョゼフ・ベルナルディン神父とその兄弟の司祭ジョン・J・ラッセル神父が未成年者とともに行った悪魔の儀式の間にご聖体を冒涜したことに言及しているにもかかわらず、司教省、国務省、シカゴ大司教区は決して追及してこなかったのです。ラッセル神父は、後に司教に聖別され、現在は故人となっています。

スーピッチは、全時代のミサ【聖伝のミサ】の挙行が、第二バチカン公会議を傷つける罪であるとみなすものの、不思議なことに、同性愛者、児童虐待者、中絶推進者、両形態のご聖体を冒涜する者に対しては寛容で理解を示す方法をよく知っています。このようなスーピッチの決定に正当性を見いだすことは、完全に不可能ではないにしても本当に難しいことです。Cupich pro domo sua.(スーピッチは自分の家のために)【スーピッチは自分の利害のために熱弁をふるう、の意。オリジナルはCicero pro domo sua.(キケロは自分の家のために)】。ベルゴリオから「米国の聖職者の性犯罪に関する委員会」を主宰するよう指示され、2018年8月に発表した「覚書」について問われたとき、次のように、つまずきを与えるような不遜な態度でコメントしたのは、もちろんスーピッチです。

「教皇にはもっと大きなアジェンダがあります。他のことを前に進めていかなければなりません。環境について話したり、移民を保護したり、教会の仕事を続けたり、です。私たちはこの件に関して横道にそれるつもりはありません。(中略)数年前、枢機卿がこのような対応をしていたとしたら、すべてが崩壊していたことでしょう。でも、今日では明らかに時代が変わりました。(中略)今では、少しは横柄な態度を取っても許されるでしょう。多くのことが知られていますから、メディアは、ほんのささいなことで衣を裂くことはないでしょう」(こちらこちら)。

正確に読んでください。「ほんのささいなこと」(For so little)。世俗の世界では、もしある管理者が、部下たちが仕事をするのを妨げ、不正直で腐敗した社員たちを昇進させ、その犯罪を隠微して励ましたとすれば、その管理者はその場で解雇され、会社のイメージダウンにつながる数百万ドルの賠償金を要求されることでしょう。その代わりに、ベルゴリオが保護するラベンダー・マフィアの色とりどりの楽隊車(バンドワゴン)では、こういった形態の悪との卑劣な共謀および善への激しい嫌悪が標準的なこととなり、道徳的な腐敗が、教理的な逸脱と典礼的な放埓に必要とされる当然の結果であることを裏付けているのです。枢機卿としてのスーピッチの誕生と、次の枢機卿会で赤い帽子が与えられる人々の名前によって裏付けられるように、まさに頂点から始まる教会の権威の危機は否定のしようがありません。

世俗的な問題で、ディープ・ステートに従順である世俗の支配者が、腐敗した役人を利用して「グレート・リセット」のサイレント・クーデターを実行するとすれば、同時に教会的な面では、負けず劣らず腐敗していて、ディープ・チャーチに従順である枢機卿や高位聖職者がいることが分かります。ベルゴリオの「賛成表明」(placet)によって、彼らは第二バチカン公会議の破壊転覆的な計画を完成させようとしており、それはフリーメーソンが切望する「人類教」へと至ることが運命づけられているものです。

しかし、一方で、キリストの教会の破壊とミサの聖なる犠牲の取り消しを目標とする、これらの反逆者たちの堪え難い権威濫用を糾弾し非難することが義務であるならば、他方で、王たるキリスト宣教会の側では、第二バチカン公会議をある種の形で呑気に受け入れておけば、公会議やノブス・オルドを批判しない限り、バックルやケープ【というスータンの飾り】に関してローマは見て見ぬふりをしてくれると、会員に誤って信じさせてしまったのではないかと、再考する必要があるように私には思われます。

このことが教えてくれるのは、トリエント・ミサは少し旧体制的すぎる(しかし、シカゴや、一般的に全米では非常に穏健です)というような、とっさに出てくる儀式に関する言外の意味を超えて、トリエント・ミサそれ自体が強力な信仰告白であり、つぎはぎだらけの改革された典礼への揺るぎない反論であるということです。それを捧げるのが、年老いた教区の牧者であろうと、新しく叙階された司祭であろうと、また、身に着けているものが、ローマ式のカズラ【カズラの形がバイオリンに似ている】であろうと、中世のゴチックのカズラであろうと、関係ありません。あの聖伝のミサ、特別に優れた(par excellence)ミサ、特別である一つの典礼様式において捧げられるミサです。このミサは本当に特別です【「特別形式」とされているのを皮肉っている】、時折あるから特別ではなく、モンティーニの典礼というプロテスタント化した模造品【新しいミサのこと】―このミサをアルスの司祭聖ヴィアンネーだったら恐怖の目で見たであろう―とは比較にならないほど優れているという理由のために特別なのです。

このミサ、聖なる教会のミサ、全時代の使徒と殉教者のミサ、「私たちの」ミサ、これこそ、本当に彼らを「つまずかせる」ミサなのです。彼らをつまずかせるものは、ローマ式のビレタ【帽子】やお辞儀ではなく、モゼッタ【高位聖職者ようのケープ】やロシェット【高位聖職者用の短い白衣】でもありません。彼らをつまずかせる本当のものはカトリックのミサであり、これこそが、彼らが異端者の怒りをもって激しく憤るものなのです。

「歓迎」と「包括性」を説く同じ人々は、それらを条件なしにすべての人に適用するのですが、良き司祭や信心深い信者には例外として適応しません。現実には、このことは、位階階級―恩寵とは無縁であるために知性においても意志においても盲目となっている―の臨終の最後の喘ぎを、完全に無視するよう私たちに確信させるに十分であるはずです。

王たるキリスト宣教会の司祭たちの前であってさえ、信者に対して冷笑的で冷酷なスーピッチが、この何度目か分からないほど力を誇示していることは、明らかにする必要のある多くの省略と曖昧な言葉、特に公会議の「心」(mens)とベルゴリオの「教導権」を受け入れるという問題についての健全な内省の時となり得ます。

私は、王たるキリスト宣教会とすべてのエクレジア・デイの団体が、この試練の日々を貴重な浄化の機会と捉え、信仰告白とミサの礼拝表現の間に必要な一貫性や、その結果として、これらと第二バチカン公会議の教理的・典礼的逸脱との間にある不一致を、勇気を持って証しすることができると信じています。なぜなら、聖ピオ五世のミサを捧げると同時に、敵の誤謬を受け入れることは不可能だからです。

スーピッチはこのことをよく知っており、そのため、そのミサの挙行を妨げようと望んでいるのです。彼は、そのミサが、悪魔のしもべたちに反対する非常に強力な悪魔祓いであることをよく知っているのです。その悪魔のしもべたちがミトラ【司教のかぶる帽子】を着けていようがいまいが関係なくそうです。

スーピッチは、そのミサが、神聖にして天主的なものという超自然の感覚――燃える柴の前のモーゼの「畏るべき神秘」(mysterium tremendum)――の故に、誰にとってもすぐに理解できるものだということを知っています。そして、そのミサが本当に信者の目を開き、信者の心を温め、信者の精神を照らしてくれるということを知っているのです。言いようのない苦悩の数十年を経て、信者はついに天主の御稜威に近づき、回心し、生き方を変え、子どもたちを聖性のうちに教育し、その模範によって信仰を広めることができるようになっているのです。主から託された羊の牧者である司教にとって、これ以上望ましいことがあるでしょうか? また、羊が狼に引き裂かれたり、奈落の底に落ちたりするのを見たいと望む者たちにとって、これほど憎むべきものがあるでしょうか?

信者、司祭、司教には、これらの完全に信用を失っている人々の決定に反対して立ち上がり、敬うべきトリエント典礼が教理、道徳、霊性の不可侵の防波堤であり続けるよう、一歩も譲らずに要求する神聖かつ緊急の義務があります。「私たちは人間より天主に従わねばなりません」(使徒行録5章29節)。特に、これらの人々が、その非難されるべき行動によって、天主も信仰における兄弟も愛していないことを証明したときには、そうしなければなりません。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

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