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ヴィガノ大司教:アルド・マリア・ヴァッリとのインタビュー(2022年4月3日)「社会的・政治的関与は、当然のことながら、超自然的な視点と結びついていなければなりませんし、天主の御摂理の助けに信頼してなされる祈りと行動と一致させなければなりません。」

【問い】大司教様、ここイタリアでは、政治的空白がますます明白になってきています。現在の各政党が自分たちを代表していないと感じるイタリア人が増えているのです。一方、この空白を埋めるために、さまざまな形で準備を進めている政治運動もあります。この問題は、おそらく他の誰よりもカトリック信者に関係しています。そのことは、大司教様が出された反グローバリズムのアピールに応じて結成された「Comitato Liberi in Veritate」(真理における自由委員会)の最初の公開会合で明らかになりました。この会合は、この2年間、私たちがグローバル・クーデターの影響のすべてを受けて生活してきた、という考察で始まったのです。
この点について二つの質問があります。第一に、支配的で足並みを揃えた思想に反対し、天主が創造した人間の自由のために戦おうと考えている人々が、政治的に行動する余地があると思われますか? 第二に、個々の国々の選択に影響を与え、指示することができる権力のある人々によって、超国家的なレベルで最大の諸決定がなされていることが実証されている今、国家の関与に力を注ぎ込むことはまだ有益なのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】カトリック信者には、市民として、市民活動や政治活動に参加することによって社会に影響を与える権利と義務があります。特に自然法と道徳の原則が無視されたり、公然と反対されたりしているときに、他人が国家の政治生活に参加するのを黙って見ているのは無責任なことです。民主主義の制度には弱点があることは事実です。正しくて善いものにではなく、むしろ多数派に統治権を与えるのですから。

しかし、私たちは、まずパンデミックの茶番劇、そして今のロシア・ウクライナ危機によって、主流メディアのあらゆる操作にもかかわらず、多数派の意志が公式の物語(ナラティブ)をますます信じなくなっていることを認識すべきです。このことは、統治する政治階級と市民の間に分裂が起きていることを示しています。市民は、官僚と政治指導者からなるマフィアが、グローバリストのエリートの奴隷となって、自分たちに対してクーデターを起こしたことに気づきつつあるのです。

気がつかないうちにクーデターが起きていることを理解すればすぐ、人々は他の基本的権利を奪われる前に、独裁政権に対して反応し、反対しなければならなくなるでしょう。

【問い】大司教様の反グローバリズム同盟のアピールでは、統治者、政治家、宗教指導者、知識人、善意の人々に団結し、反グローバリズム宣言の発表に参加するよう呼びかけておられます。イタリアや他の国でのこういった取り組みの最新状況を教えていただけますか?

【ヴィガノ大司教】グローバリズムの暴政に対抗するためにアピールを出しましたが、各国のさまざまな方面から関心と支持が高まっているように思います。しかし、ロシア・ウクライナ危機の責任はだれにあるのかを示す証拠や、また、平和を求めるよりも挑発行為に固執することの愚かさによって、多くの人々が、ディープ・ステートのクーデターに堅く抵抗するために組織化しなければ、自分たちが危険にさらされるということを理解してくれると私は信じています。米国では、この運動が、共和党だけでなく、オバマ家、クリントン家、バイデン家のスキャンダルや腐敗にうんざりしている多くの民主党の有権者の間でも、温かく受け入れられていることを私は知っています。

【問い】大司教様はアピールの中で、政治の抜本的な改革に向けた真の「民衆のレジスタンス運動と国民解放委員会」について述べておられます。しかし、現状では、世論がほとんど自己満足で眠っているため、適切な道徳的緊張がないという意見もあります。この反論に対して、世界各地との接触からどのようにお答えになりますか?

【ヴィガノ大司教】大衆は、特に社会心理学の専門家によって操作され、静かにさせられている場合は、行動のために動員される傾向はほとんどありません。真のレジスタンス、また国民解放委員会の設立は、自らの政治的利益よりも共通善と正義の擁護を優先させる方法を知っている知識人と政治家によって調整されるなら、成功することでしょう。私たちは、健全な道徳的原則に基づいた、名誉の感覚を持った勇気ある指導者を必要としています。その例は、裁判官や法執行機関、公務員のうちに良心の目覚めと尊厳の復活が伴えば、新世界秩序(New World Order)の到来を本当に阻止することができるのです。

社会的・政治的関与は、当然のことながら、超自然的な視点と結びついていなければなりませんし、天主の御摂理の助けに信頼してなされる祈りと行動と一致させなければなりません。したがって、司祭、修道者、そしてすべての信者は、祈りだけでなく、苦行、断食、そして頻繁に秘跡を受けることによって、善い戦いをしている兄弟姉妹に霊的に寄り添うように求められているのです。天主の御あわれみと至聖なる童貞の力強い御取り次ぎは、あわれな人類に奔流のような恩寵を注ぐために、私たちからの真の回心の具体的な行動を待っているのです。このように、敵を前にして私たちが数的に劣っていて手段が不足しているということは、主にとって「Sine me nihil potestis facere――私がいないと、あなたたちには何一つできぬ」(ヨハネ15章5節)というみ言葉が真理であることを証明してくださる機会を提供するでしょう。

【問い】グローバリストのクーデターが起こり、今も続いている理由の一つは、カトリック教会の最高権威が、人間の尊厳に関する自由の保証人ではなくなったからです。それどころか、その権威は新世界秩序の奴隷となり、グローバリストと同じ言い方をし、支配的エリートたちと同じ利益に従っているのです。このグローバリストのアジェンダ(行動計画)への服従は、多くのカトリック信者にとって大きな苦しみの原因であり、キリスト教の再生の希望をすべて消し去っているように思われます。これには時間という要因が重要な役割を果たしています。この教皇職が長く続けば続くほど、教会は自滅的な段階に至るまで【敵の】プロジェクト全般と足並みを揃えていくことでしょう。ベルゴリオの統治の後、回復は可能だと思われますか? どのような展望をお持ちでしょうか?

【ヴィガノ大司教】このサイコ・パンデミックの茶番劇にベルゴリオの教会と全世界の司教団が加担したことは、教会の歴史全体を通じて、位階階級が最悪状態の一つにあることを示しました。しかし、これは、第二バチカン公会議にその基礎を見いだす、腐敗し堕落したイデオロギーの論理的帰結であり、このことはこのイデオロギーの創造者たちが誇らしげに繰り返して主張している通りです。

つい数日前の3月25日、他の共謀者たちがシカゴに集まり、ベルゴリオに反対する者は公会議に反対していると強調する宣伝活動を行いました。これらの陰謀家たち――その中でもマカリックの廷臣と手下は際立っています――の悪評を別にすれば、私たちは、公会議の癌とベルゴリオへ癌の転移との間には本質的な関係があることについて、この陰謀家たちと同意せざるを得ません。カトリック位階階級の背教は、天主の御稜威が反逆的で罪深い人類を懲らしめている罰であることは明らかです。この罰によって、人類が天主の主権を認め、回心し、最終的にキリストの優しいくびきの下に戻るようにさせているのです。そして、司教たちが自分たちの裏切りを認識せず、裏切りを悔い改めないうちは、世界には何の希望もありません。救いは、唯一の牧者(キリスト)のもとにある一つの群れ(カトリック教会)の中でしか得られないからです。

【問い】最近、聖なる枢機卿会のメンバーの間で、デモス(Demos:ギリシア語で「民」という意味)というペンネームの署名のある覚書が回覧されましたが、そこにはベルゴリオの教皇職によって引き起こされたあらゆるレベル(教義的、司牧的、運営上、経済的、法的)の災難が列挙されています。「【警告が】たとえ遅くとも何もないよりはましだ」とコメントする人がいれば、「馬が全部逃げた後に納屋のドアを閉じても意味がない【後の祭りだ】」と言う人もいます。この覚書についてどう思われますか? 枢機卿の一人が書いたものだと思われますか? 遅ればせながらも自覚の表れなのでしょうか?

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【ヴィガノ大司教】この覚書は、ベルゴリオの「教皇職」の恐ろしさを列挙しています。そうすることは、ベルゴリオをたたえることに比べれば、すでに一歩前進しています。しかし、このアルゼンチン人とその宮廷の恐ろしさとその誤謬は、それ以前の教皇職がすべて完璧で素晴らしいものであったかのように、どこからともなく現れたわけではありません。この危機は、第二バチカン公会議から始まりました。原因を理解せずに病気の症状を嘆くのは、無駄で有害な行為です。もし枢機卿会が、教会がピオ十二世まで信じ、教え、捧げたことに戻ることが必要であると説得されなければ、現体制に対する反対はすべて、確実に失敗する運命にあるでしょう。

【問い】大司教様のご意見では、【次期】コンクラーベで、現在の教皇職と比べて完全に方針を変えるために、枢機卿たちが票を集中できるような人物、信頼でき、真のカトリック信仰をもつ方が、枢機卿会の中にいると思われますか?

【ヴィガノ大司教】(教会に)【恵みとして】与えられた教皇たちもいれば、(教会に)【罰として】押し付けられた教皇たちもいるということを忘れないようにしましょう。しかし、次のコンクラーベを論じる前に、ベネディクト十六世の退位と2013年のコンクラーベの操作の問題を明らかにする必要があります。もし不正の証拠が証明されれば、コンクラーベは無効となり、ベルゴリオの選出も無効となり、彼の任命、統治行為、教導職としての発言もすべて同様です。2013年以降に誕生した悪名高い超進歩的な枢機卿たちをすべて追い出し、ベネディクト十六世の時代までに任命された枢機卿たちだけで構成された枢機卿会が、御摂理的に私たちを「以前の状態」(status quo ante)に復帰させる「リセット」となることになります。確かに、ラッツィンガーの辞任とベルゴリオの選出についてさまざまな噂が流れている現状は、教会という組織の助けにはならず、信者の間に混乱と戸惑いを生じさせています。

ここでも、カトリック信者は、教会がこれ以上の屈辱を味わうことのないよう、善き教皇をお与えになるよう、天主の御稜威に懇願することができます。もし、本当に「完全に変えたい」と思っている一人の枢機卿がいるならば、彼に名乗りを上げてもらい――天主への愛のために――第二バチカン公会議について言及するのをやめてもらい、その代わりに聖職者と信者の聖化について考えてもらいましょう。

【問い】米国では、バイデン政権はますます問題を起こし、大統領はますますその不適切さを見せています。しかし、同盟関係や最高レベルでの利害関係の交差のために、このカードでできた家【バイデン政権】を崩壊させることは不可能のように思えます。トランプは何をしているのでしょうか? 米国の状況をよりよく理解するために、お助けいただけますか? 大司教様は専門家でいらっしゃいますから。

【ヴィガノ大司教】バイデン政権は、福音の不変の道徳的原則を顧みることのない公務において、腐敗が全般的に広がっていることを映す鏡です。また、妊娠中絶、安楽死、ジェンダー・イデオロギー、そしてあらゆる最悪の逸脱を支持する政治家が、あえてカトリック信者を名乗るのだとしたら、この政治家を教育した教師や教育者、司祭の責任はいかなるものかと、私たちは問わねばなりません。彼の教区司祭はカテキズムの授業で何を教えたのでしょうか? 彼のカトリックの大学の教授は何を教えたのでしょうか? この将来の政治指導者の霊的指導者は、彼にどんな指導をしたのでしょうか?

ですから、このことは、私たちを出発点に立ち戻らせます。つまり、第二バチカン公会議は、この世を教会に回心させる代わりに、教会をこの世に合わせてしまい、教会の福音伝道を実りのないものにしました。「宣教する教会」が盛んに語られましたが、同時に、説教は、愚かな慈善主義的理想、疲弊した左翼イデオロギー、空虚な平和主義的スローガンのプロパガンダとなったのです。そして、こういうイエズス会の学校から生まれたものを見てください。それは、第二バチカン公会議の「最高の作品」(crème de la crème)です。ペロシやバイデンのような人々は、まったくカトリックとは言えませんが、司教たち、またベルゴリオ自身からさえも拍手を受けながら、とがめられることなく堂々と聖体拝領をするのです。

米国の司教団は、ベルゴリオを喜ばせることに気を使いすぎて、実際、民主党の綱領を断罪しないように非常に気を使いますが、一方で、あらゆる矛盾を抱えながらも、より効果的かつ確信的に自然法の原則と生命の尊厳を擁護するトランプ大統領に対しては、躊躇なく怒りをぶつけます。

ロシア・ウクライナ危機は、ディープ・ステートの傀儡であるバイデンが、自分自身のスキャンダルや息子ハンターのスキャンダルを隠すことに気をとられすぎたため、現在の紛争で平和を頑なに妨げている姿を私たちに見せています。私はその例として、ブリズマや、ウクライナのバイオラボにおける米国の利益について考えています。もし、ハンター・バイデンが起訴され、父であるジョーの関与が証明されれば、弾劾は避けられず、十分に正当化され、これによってトランプが政権に返り咲くようになる可能性があります。その一方で、現在進行中の捜査によって(2020年に)選挙不正があったことが証明されれば、トランプが大統領と宣言される可能性もあります。ですから、そうなれば、ディープ・ステートとグレート・リセットにとって致命的な打撃となるでしょう。

【問い】コロナウイルス感染症の問題や今回のウクライナの戦争という問題は、深刻な違いの存在を浮き彫りにしました。――それは、文化的、政治的な違いという以前に、人間学上の違いと言ってもいいでしょう――つまり、一方では「思想のボスたち」が継続して連携した行動をおこすことによって、私たちに押し付けられた条件があるという問題に気づく人々がいます。他方では、そうする代わりに、支配的な物語(ナラティブ)を受け入れて押し付けられたドグマに自らを合わせる人々がいますが、その二種類の人々の違いです。家族の絆や友情で結ばれている人々さえも分断してしまうこのような違いに直面したとき、信者である私たちはどのように行動すべきでしょうか?良心の「軍事化」(militarization:自分の主張を相手に理解させようと攻撃的になること)という誘惑に屈服することなく真理を証言するためには、どうに行動すべきでしょうか?

【ヴィガノ大司教】良心を操作することは、個人の自由を本当に侵害し、その人の能力を鈍らせ、ひいてはその人の行動の道徳性にまで影響を及ぼすことになります。社会心理学の教えによれば、特定のテクニックに従って精神的な条件づけを受ける人は誰でも、最後には、自分の判断力を鈍らせたり、自分の行動に対する道徳的評価を下すことさえしなくなったりします。大衆の模範であるという駆動力、社会的判断が私たちの振る舞いに及ぼす駆動力、「規則を守ること」を私たちに強制するために用いられる制裁という脅威の持つ駆動力、逆に「社会的に責任のある」行動を私たちに取らせるために用いられる賞や報酬という誘惑の持つ駆動力について考えてみてください。これが、例えば、パンデミックの茶番劇が打ち立てられた土台でした。この茶番において、大衆操作のあらゆる原則が見事に実行されたので、権利、仕事、給料、旅行能力を奪われた人々は、これらの原則に反対した同じような大衆的反応を示すことはありませんでした。

信者たちも、社会の一員として、コロナウイルス感染症のプロパガンダ体制に耐えました。また国家当局【による行動制限などの政策】が教会当局によって承認され支持されていたというますます悪化する状況に耐えていました。教会当局はカトリック信者を導いて、都市封鎖、マスクの使用、道徳的に受け入れがたい実験的遺伝子治療の実施に無批判に従うようにしたのです。したがって、サイコ・パンデミックとワクチン・キャンペーンを受け入れた責任は、ほとんどすべて教会の牧者たち、特にベルゴリオにあることを認識しなければなりません。ベルゴリオは、新世界秩序、世界経済フォーラム、グローバリズムのイデオロギーを無条件に支持していることを隠していないのですから。

あなたは私に、良心の「軍事化」が、まるで嘆かわしいことでもあるかのように言っておられます。私たちの主はこう言われました。「これからはもう、一家に五人いるなら、三人は二人に、二人は三人に対立して分かれ、父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対立して分かれるだろう」(ルカ12章52-53節)。また、こうも言われました。「兄弟は兄弟を、父は子を死の手に渡し、子は親に逆らい親を死なせる。あなたたちは私の名のためにすべての人から憎まれる。だが終わりまで耐え忍ぶ者は救われる」(マテオ10章21-22節)。もしこの表現【良心の「軍事化」】が、勇気をもって、キリストを、しかも十字架につけられたキリストを証言することを意味するのなら、悪の力の広がりと、社会およびキリストに対する新世界秩序の攻撃に直面して、私たちの良心の「軍事化」を避けることが可能であると、どうして考えることができるでしょうか?

真理は、それを無視する人々を打ち据える棍棒ではなく、むしろ、枡の下に入れることのできない光【マテオ5章15節】であり、最初は眩しいかもしれませんが、善意と正しい良心を持つ人々には無視できない光なのです。その光――これは唯一の世の光であるキリストの光線です――を見たくない人は、闇の側に立つことになるため、愛徳をもって、その人が闇から抜け出す手助けをしなければなりません。私たちの愛する人々に対してなら、なおさらです。彼らの誤った信念は、私たちの敵意のない忍耐強い対応によって、しばしば砕け散り、やがて私たちの「陰謀論」は、その後まもなく公に知られるところとなるであろうことを、理性と洞察力で先取りしていただけだ、と理解するようになるのです。もちろん、公会議で近代主義者たちが仕組んだもっと大きな欺瞞よりも、サイコ・パンデミックの欺瞞の方が理解しやすいでしょう。

【問い】一部のカトリック信者の間では、大司教様に対する反対意見が話題になっていますが、それは多かれ少なかれ、次のようなものです。「ヴィガノ大司教は政治や経済に関心を持ちすぎてしまい、神学、教理、司牧の実践を扱う宗教的な領域に限定すべき本来の行動分野から遠ざかっている」。大司教様はどうお答えになりますか?

【ヴィガノ大司教】しかし、彼らは、私の司牧活動について、何を知っているのでしょうか? 主が私に与えてくださる力を使って、私は、世界中の司祭と信者に霊的、物質的な支援を提供するとともに、私の主要な関与を構成する激しい司牧的、教理的な活動を実施しています。この司祭としての行動はニュースにはなりませんが、それは私が随行者を連れて行く習慣がないからです…。一方、今日、私が政治や健康上の緊急事態について話したという理由で私を攻撃してくる人々は、昨日、私が教会の腐敗や公会議と改革された典礼の逸脱を糾弾したという理由で攻撃してきたのです。

能力の「区分化」は、対話相手が何を言う権限があるか、いつ言えるか、口を開くためにどんな資格を持っていなければならないかを、敵が「motu proprio」(自分のやり方で)決定するための優れた道具なのです。司教が政治的な問題に介入してはならないと決めたのは、いったい誰なのでしょうか? 

世俗主義者たち、また、カトリック信者の中でも、奇妙なことに超進歩的な司教たちや聖職者たちの横暴を許すような人々は、ベルゴリオがトランプに反対したりトルドーに賛成したりして発言すれば熱狂するものの、ある司教がシステムを喜ばせなかったり、あるいは足並みを揃えた考え方で一致するという方法で物語(ナラティブ)に従わうことがなかったりすれば【怒りをあらわにして】衣服を引き裂いて憤怒するのです。

聖アンブロジオは――行政の仕事に携わり、まだ平信徒であったときに司教になるように人々から要請されましたが――政治的問題に介入することにためらいはなかったと私は思います。司教は牧者であり、主が司教に割り当てられた羊の群れの中には、謙虚な者も権力者も、臣民も支配者も、男も女も、正直な市民も不良な者もいます。彼らは皆、良い牧場に導かれ、狼から保護されるべき羊なのです。

私は、自分の介入において、使徒の後継者としての私に主が託された使命を常に追求してきただけであり、差し迫った危機について、誰も警鐘を鳴らさないので、人類が奈落の底に落ちていこうとしているこの時代に、霊魂の救いのために働いてきたように思います。

【問い】これから聖週間を迎えます。大司教様、私たちが真の意味でカトリック的な方法で、聖週間をうまく過ごすことができるように、少しお言葉をいただけますか?

【ヴィガノ大司教】四旬節の第五の主日から御受難節に入り、聖なる三日間の行事で最高潮に達します。この数日間の典礼儀式の美しさと深い霊性は、私たちの主の復活の準備としての聖なる四旬節をふさわしく終えるための貴重な機会です。

ダヴィドの子をエルザレムに凱旋者として受け入れ、その直後に最高法院(サンヘドリン)に操られ、ピラトにイスラエルの王を十字架につけるよう叫ぶ群衆のホザンナを黙想しましょう。そのホザンナが、私たちが邪悪な助言者や堕落した権力者から遠ざかり、十字架の道に沿って勇気を持って主に従うための警告となりますように。

大司祭の利益を図るために世俗の権威によって行われた不正かつ不義の判決の後、柱での痛ましい鞭打ちや、いばらの冠を押しかぶされること、カルワリオ山への登攀、そして主の十字架刑を黙想しましょう。

私たちの至聖なる贖い主の御受難に霊的に一致しましょう。そうすることで、主イエズス・キリストに死刑を宣告するために自分たちの権威を利用するような人々によって、私たちが欺かれるがままにされないようにしましょう。彼らは、今日もなお、聖金曜日の群衆の言葉を繰り返しながらこう言っています。「Non habemus regem, nisi Cæsarem――私たちの王はチェザルのほかにはありません」(ヨハネ19章15節)と。

「Videbunt in quem transfixerunt――彼らは自分たちが刺し貫いた人を仰ぎ見るだろう」(ヨハネ19章37節)と聖書は言っています。私たちも、御受難の苦しみで見る影もなくなる私たちの救い主を見つめ、私たち一人一人が主の御苦しみにおいて、どのような役割を果たしたかを考えることができますように。私たちは、自分の罪、不忠実、人間的な尊敬を追い求めたこと、罪深く沈黙していた時について悔い改めましょう。凡庸さから奮い立ち、王の中の王の御旗のもとに勇気をもって立ち向かい、まず、天主の恩寵の中で生活し、ロザリオを唱え、ミサにあずかり、頻繁に告解を受け、秘跡を受けることから始めましょう。そして、十字架なくしては復活はないこと、死の道具が、主によって流された、いとも尊き御血によって、生命と勝利の紋章(エンブレム)となったことを思い起こしましょう。

2022年4月3日
御受難節第一主日

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