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2020年のバチカンの降誕場面は『冒涜的』である(2020年12月23日)

[編集者注]
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、ヴァチカンのトップの要職を務め、在米教皇大使の重職を果たしたカトリックの高位聖職者(大司教)です。
ヴィガノ大司教は、多くの批判を受けることを覚悟の上で、命がけで、カトリック信者の多くを眠りから覚ますために、このように発言していると思えます。

ヴィガノ大司教は、カトリック教会内における変革や改革などを見ていても、自分がかつて自分の目にする現実を何とか正当化してきたことでしょう。新しいミサ、新しい秘蹟、新しい教義、新しいやり方、新しい教会法、新しい祈り方、新しい公教要理、新しい教会制度、新しいノーマル、などなどです。しかし、教皇大使として現実をあまりにも知りすぎてしまった、裏の裏を見てしまったのだと思います。

ヴィガノ大司教の訴えていることは、一般信者が棄教の激流に押し流されないように、信仰の命を守るように、カトリック教会の聖伝に立ち戻るとさせることです。大きな警報の声で、私たちに襲い掛かる危険について注意を促しています。

聖伝のミサが奪われて新しいミサが押し付けられたとき何も抵抗せずにいたことからの反省が現れています。もうそのような間違いは繰り返したくない、カトリック教会の使徒継承の宝を何とかして守りぬきたいという願いがにじみ出ています。もはや「私たちの教会が壊されることを許し、私たちの祭壇が剥ぎ取られるがままにさせ、教理の持つ単純で結晶のような完全性が異端者に典型的である曖昧な混乱によって改悪されるのを許すという誤り」はごめんだ、と。

ヴィガノ大司教は、このような異常な状況は、私たちが「目から覆いを取り除くのに役立つ」ので、天主に感謝すると言っています。ヴィガノ大司教の発言の目的はまさにこれです。私たちが目を覚ますことです。私たちに迫り来つつある、大きな「背教、不道徳、悪徳」の津波から逃げることです。その津波の前兆が「醜さ」で「それは滅び、消え、崩れ去る運命にあります。」「醜さは嘘や悪事の伴侶」だからです。それに引き換え、カトリック教会が常に持っていた「美は真理と善にとって欠かせない侍女」です。

ヴィガノ大司教「2020年のバチカンの降誕場面は『冒涜的』である」
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2020年12月23日

EN GREGE RELICTO[1]
群れを残したまま[1]

サン・ピエトロ広場の降誕場面に関する考察

サン・ピエトロ広場の中央で、金属製の構造物が降誕場面を占めており、急ごしらえで筒状のライトによって装飾され、その下には、常識のある人ならば降誕祭の登場人物と同じと言う勇気はないであろう、いくつかのぞっとするような像が、トーテムとして邪魔をするように立っています。バチカン大聖堂の厳粛な背景は、調和のとれたルネサンス建築と、擬人化されたボウリングのピンによる下品な展示物の間にある深淵、落差を増大させるのに役立っているだけです。

ぞっとさせるようなこれらの人工物が、アブルッツォ州の名も知れない美術学校の学生たちの作品であることは、ほとんど問題ではありません。降誕祭への大っぴらな侮辱物をあえて寄せ集めようとしたのが誰であれ、この誰かは、無数の芸術もどきの奇怪な作品を生み出しているだけでなく、美しいものをあるいは後世に残す価値のあるものをどのようにして作るかを知らなかった時代に、そんなことをしたのです。私たちの美術館や現代美術ギャラリーには、1960年代から70年代にかけての病んだ心から生まれた作品や展示品、挑発的作品があふれています。それらは、見られたものではない絵画、嫌悪感を与える彫刻、主題も意味もわからない作品です。教会もそれを免れませんでしたし、教会はそのような作品であふれてさえいますが、それは常に不運な時代に始まったものであって、才能よりもイデオロギーや政治的な所属を評価された「芸術家」によって生み出された不心得な汚染物です。

何十年にもわたって、建築家や職人たちは、素朴な人々に嫌悪感を与え、信徒たちをつまずかせてしまうぞっとするような建築物や調度品、聖なる装飾品を作り続けてきました。この同じ悪の根源から生まれたものには、ベルゴリオの移民主義的な基調で、「無名の移民の記念碑」である青銅製のおんぼろの船があり、今では右側のベルニーニの列柱の調和を乱し、その圧迫感のある重さで石畳が沈み、ローマの人々を困惑させています。

今年の冒涜的な降誕場面より前に、イタリアの同性愛者とトランスジェンダーのコミュニティーのための巡礼地であるモンテヴェルジーネの聖堂がバチカンに提供した、同じような2017年の冒涜的なものがあったことを思い起こすべきです。この「反・降誕場面」は、「教皇フランシスコの命令と教理に従って注意深く計画され、前もってよく考えられた」もので、あわれみの作品とされるものを描き出したということになっていました。それは、地面に横たわる裸の男、ぶら下がった腕を持つ死体、囚人の頭、虹の花輪を持つ大天使、そして廃墟の中に見られる聖ペトロ大聖堂の円屋根です。

非常に不幸な実験を正当化する口実として降誕祭を取り上げた同様の複数の試みは、多くの信徒の苦しみとなってきており、聖職者の浪費や彼らの革新への渇望にいかなる犠牲を払っても耐えることを余儀なくされています。その渇望は、意図的に「冒涜」(profane)しようとする意志であり、この「冒涜」とは語源的には世俗的なものにするという意味ですが、正確には聖なるもの、この世から切り離されたもの、礼拝と崇敬のために取っておかれたものを冒涜することです。それには、あるはずのないモスクを含む「エキュメニカル」な降誕場面、いかだに乗った聖家族を描いた「移民主義者」の降誕場面、そしてジャガイモや金属くずで作られた降誕場面さえもありました。

これらは、ルネサンスあるいは 18 世紀の画家が行ったように、東方の博士たちの行列を当時の衣装で着飾ってクリスマスの場面を現代化しようと試みている、というわけではないことは、今では、最も経験の浅い人にとってさえも明らかです。そうではなくむしろ、これらは邪悪なる者【悪魔】に欠かせない属性である醜さによる反・天主顕現性として傲慢にも冒涜と汚聖を押し付けることなのです。

この降誕場面が作られた各年が、第二バチカン公会議や改革ミサの問題が浮かび上がった年と同じ年であることは偶然の一致ではありません。それを作る気にさせた原則が同じであるように、その美学は同じです。なぜなら、ちょうどそれらの年が、公会議の教会に道を譲ってきたカトリック教会の日食の始まりの証しとなったように、それらの年は一つの世の終わりを告げるとともに、現代社会の始まりを告げたからです。

このような巨大な陶芸品を窯に入れることは、少なくない問題を引き起こしたに違いありませんが、アブルッツォ州の美術学校の勤勉な教師たちは、それらを小さな部分に分解することで克服しました。公会議でも同じことが起こりました。そこでは、時代が違えば秘密のちっぽけな進歩的神学者のグループでの議論に限られていたであろう文書の中に、巧妙な専門家たちが教理上や典礼上の新奇性を押し込むことに成功したのです。

偽芸術的な実験の結果は、表現されている対象が主のご降誕であると主張されればされるほど、より一層ぞっとするものとなっています。このような怪物的な人物の集合体を「降誕場面」と呼ぶことに決めたからといって、それを「降誕場面」とすることはできませんし、教会や広場、家庭でこのような場面が公開されている目的、すなわちご托身の神秘の前で信徒の礼拝を燃え立たせるという目的にも合致していません。それはちょうど、第二バチカン公会議を「公会議」と呼んだからといって、その定式化に問題が少なくなったり信徒の信仰を確実に強めたりしたわけでもないように、また秘蹟をさらに頻繁に受け取るようになったわけでもないように、ましてや、異教徒の群衆をキリストのみ言葉へと改宗させたわけでもなかったようにです。

またそれはちょうど、カトリック典礼の美しさが、みじめさでのみ優越を示している儀式に取って代わられたように、ちょうどグレゴリオ聖歌と宗教音楽の崇高なる調和が、部族的なリズムと冒涜的な音楽を教会内に響かせるために教会から禁じられたように、ちょうど聖なる言語【ラテン語】の持つ普遍的な完全性が俗語のバベルの塔によって一掃されたようにです。ですから、【アシジの】聖フランシスコによって考案された【降誕場面での崇敬という】民衆の持つ古くからの崇敬の衝動は、くじかれてしまいました。その素朴さにおいてこの崇敬を歪曲し、その心を剥ぎ取るためになされたのです。

おそらく、信徒や小さな子どもたちが非常に大切に思う古い時代の伝統に対して、このようなあからさまに不敬な行いを誇示しているのを見ると、オベリスク【古代エジプトのモニュメントでローマ帝国の勝利の記念にエジプトから運ばれた】の下まさにそこに設置することを望んでいた霊魂たちの状態を理解することができます。つまり、これは、天と天主の民との両方に対する反抗行為としてなされたのであり、恩寵のない、信仰のない、愛徳のない霊魂らの状態を示しています。

誰かが、これらの卑猥な陶器の像にキリスト教的なものを見いだそうとする無駄な試みをするとき、彼は、すでに犯された誤りを繰り返してしまうことになるでしょう。つまり、私たちの教会が壊されることを許し、私たちの祭壇が剥ぎ取られるがままにさせ、教理の持つ単純で結晶のような完全性が異端者に典型的である曖昧な混乱によって改悪されるのを許すという誤りです。

はっきりと言いましょう。そのモノは降誕場面ではありません。なぜなら、もし降誕場面だったとしたら、「肉による」(secundum carnem)天主の子のご托身とご誕生という崇高な神秘、羊飼いと東方の博士たちの礼拝しながらの讃美、天主なる幼子に対する至聖なるマリアの無限の愛、そして被造物と天使たちの驚きが描かれているはずだからです。要するに、降誕場面が、預言の成就、飼い葉桶の中の天主の子を見ることへの私たちの魅惑、私たちが贖いの御あわれみに値しないこと、を黙想させてくれるように、私たちの霊魂の状態が描かれているはずだからです。その代わりに、広く知られている敬虔さへの軽蔑、天主の真理の永遠の不変性を想起させる永続する【降誕場面の】モデルを拒絶すること、王たる幼子の御稜威と博士たちの曲がった膝の前にいる不毛の死んだ霊魂の無気力さ、に気づくのです。荒涼とした灰色の死、暗い無菌性の機械、暗闇の地獄宣告、そして自分の権力が王たる幼子の救いの光によって脅かされているのを見ているヘロデの持つ嫉妬深い憎しみに気づくのです。

繰り返しになりますが、私たちはこの試練の中でさえも主に感謝しなければなりません。この試練は一見すると影響が少ないように見えますが、私たちが受けているより大きな苦難と首尾一貫しています。なぜなら、私たちの目から覆いを取り除くのに役立つからです。この不遜な怪物は、新世界秩序(New World Order)が望んでいるトランスヒューマニズム【科学技術で人間の身体的能力を高めようとする思想。「H+」と略される。新グノーシス主義との批判もある】による普遍的な宗教のしるしです。それは背教、不道徳、悪徳の表現であり、模範として立てられた醜さの表現です。そして、天主の祝福を受けず、実際には天主に背いて人間の手で作られたすべてのもののように、それは滅び、消え、崩れ去る運命にあります。これは、単に好みや感性の異なる誰か別の者が権力を握るようになるからではなく、醜さが嘘や悪事の伴侶であるように、美は真理と善にとって欠かせない侍女であるからなのです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2020年12月23日待降節第
四週の平日(水曜日)

[1]「アデステ・フィデレス」(Adeste Fideles)の第三番の歌詞「En grege relicto, humiles ad cunas, vocati pastores approperant. 見よ、群れを残したまま、貧しい揺りかごへと、呼ばれし羊飼いらは急ぐ」
み告げ受けて 羊かいは
群れ打ちおきて 道いそぐ
いざ我ら 共に馳せ行かん

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