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聖伝の炎が消されないようにした聖ピオ十世会は評価に値する。聖ピオ十世会の司祭たちは、位階階級の人々にとって脇にささる健全な茨の役割を果たしてきた。(2020年9月1日)

 ヴィガノ大司教は「カトリック信者は今どうすればいいか?」という重大な問いに、言葉を濁さずに、はっきりと私たちにアドバイスを与えています。

ヴィガノ大司教の書簡

親愛なるコックス様、

【カトリック信者は今どうすればいいか?に答える】
8月22日付でカトリック・ファミリー・ニュース(CFN)に掲載されたあなたの論文「ヴィガノ大司教への質問 大司教閣下は第二バチカン公会議については正しいが、しかしカトリック信者は今どうすればいいとお思いなのか (Questions for Viganò: His Excellency is Right about Vatican II, But What Does He Think Catholic Should Do Now?)」を大いなる興味をもって読みました。信者にとって非常に重要な問題を取り上げているあなたのご質問に喜んでお答えします。

【公会議の教会から「離れる」とは?】
あなたはこうお尋ねです。「公会議の教会から『離れる』ということは、ヴィガノ大司教のお考えではどういう行動になるのでしょうか?」。

私はもうひとつの質問をもってあなたにお答えします。「公会議の支持者たちによれば、カトリック教会から離れるということはどういうことを意味するのでしょうか?」。

公会議のイデオロギー的主張が混ざった教理を打ち出している人々と交わることが不可能なのは明らかですが、一方で留意すべきことは、ただ洗礼を受けてキリストの教会の生きるメンバーであるという事実によって、必ずしも「公会議チーム」を支持していることにはならないということです。これはとりわけ素朴な信徒に当てはまることであり、また、さまざまな理由により自らを真摯にカトリック信者であると思いつつ位階階級を認める教区の聖職者や修道会の聖職者にも当てはまることです。

むしろ、はっきりさせる必要があるのは、自らカトリック信者であると宣言しながらこの数十年の間に広がった異端の教理を受け入れ、かつそれらの教理が以前の教導職と断絶していることを認識している人々の立場です。この場合、彼らが本当にカトリック教会に属しているのかを疑うのは正しいことですが、しかしながらその彼らは教会における公式な役割を持っており、それらの役割から権威を与えられています。もしその権威の目的が公会議以来押し付けられた革命を受け入れることを信徒に強制することであるならば、そのような権威は不正に行使されるものです。

いったんこの点が明確になれば、教会を捨てなければならないのは、むしろカトリックの名を不当に奪っている近代主義者たちであることは明らかです。教会にとどまる完全な権利を持っており、教会から離れるようなことは不幸なことである伝統的な信徒たち、すなわち聖ピオ十世の言葉で言えば「まことのカトリック信者たち(true Catholics)」ではありません。

なぜなら、まさに【近代主義者たちの有する高位聖職者としての】官僚としての要素だけが、彼らをして、他の異端の宗派と同等に見なさないようにさせているにすぎないからです。
彼らの持つこの立場が異端運動の一つに終わらないようにしている、つまり、何世紀にもわたって自分勝手に教会を改革することができると信じて私たちの主の教えを謙遜に守ることよりも自らの傲慢を優先させてきた何百もの異端の運動の一つに終わってしまうのを、実際、防ぐ役割をしているのです。

しかし、いかなる人も、言語、法律、信仰、伝統を知らない国で市民権を主張することができないのと同じように、カトリック教会の信仰、道徳、典礼、規律を持たない人々が、教会の中にとどまったり、さらには位階階級の地位を昇ったりする権利を不当に主張することはできません。

それゆえに、憤りは正当であっても、私たちは教会が異端者たちや姦通者たちによって侵略されているという口実のもとにカトリック教会を捨てるという誘惑に屈しないようにしましょう。 【カトリック教会という】聖なる囲いから追放されなければならないのは彼らなのであって、私たち一人一人はそのための浄めと償いのわざを始めなければならないのです。

【小教区の教会で、信仰を危険にさらすミサに直面する場合、どうすればよいか?】
また、聖なるミサがカトリックの儀式によって行われる教会がますます少なくなり、信徒たちが自分の小教区の教会に通う際に深刻な問題に直面するケースが広がっていることも明らかです。カトリックの教育、ふさわしい秘蹟の執行や、自分や子どもたちのためへのしっかりとした霊的指導を確保することが非常に難しいのと同じように、私たちの数多くの小教区や聖堂で何十年にもわたって広がった惨状の結果、私たちが動揺したり、自分の信仰を危険にさらしたりすることなく「感謝の祭儀(Eucharist)」にあずかることさえ不可能になっています。

このような場合、信心深い信徒には、永年の教導職に忠実な司祭、共同体、修道団体を見つける権利と義務があります。彼らが公会議の前にひるむことなく、健全な教理と道徳を堅持して、賞賛に値する形で執行される古い儀式による典礼にあずかる方法を知ることができるように願います。

【聖職者たちは、信仰の遺産を守るためにどうするべきか?】
聖職者にとっては、状況がさらに複雑であることは確かです。彼らは位階的に自分たちの司教や修道会の長上に依存していますが、また同時にカトリックにとどまり、カトリックの儀式に従って【ミサを】執行する権利を持っています。

一方で信徒たちは、ミサ、秘蹟や、宗教的な指導を得る共同体を選ぶにあたって聖職者よりもっと移動の自由を持っていますが、彼らは依然として司祭に依存しなければならないという事実のゆえに、持っている自律性は低くなります。他方で聖職者は、教区や修道会に籍があり教会の権威に従うがゆえに移動の自由は信徒より少なくなりますが、トリエント典礼でミサや秘蹟を執行したり、また健全な教理に沿って説教したりすることを合法的に決めることができるため、自律性は高くなります。【教皇ベネディクト十六世の】自発教令「スンモールム・ポンティフィクム(Summorum Pontificum)」は、信徒や司祭が自分たちのカトリック信仰をより完全に表現する典礼を利用する奪われることのない権利(この権利は拒絶され得ません)を持っていることを再確認しました。しかし、今この権利は、「特別形式」の典礼を保存するためだけでなく、と言うよりもむしろ、古い典礼においてのみ完全な一致が見いだされる「信仰の遺産(depositum fidei)」を固守していることを証すために、使用されなければならないのです。

【今日、私たちの信仰の証しがなければならない】
私は毎日、教会への忠誠が理由で疎外されたり、異動させられたり、追放されたりしている司祭たちや修道者たちから心のこもった手紙を受け取っています。改革主義者たちの騒がしさから離れたところに「ウビ・コンシスタム(ubi consistam)」[よって立つ場所]を見つけたいという誘惑は強いのですが、私たちは聖アタナシウスを含む多くの聖人たちが受けてきた迫害から手本を得るべきです。聖アタナシウスは、広まった異端や迫害の猛威に直面したときに、どのように振る舞うべきかの模範を私たちに与えてくれます。

私の尊敬すべき兄弟であるアタナシウス・シュナイダー司教が何度も思い起こしておられるように、このエジプトのアレキサンドリアの聖なる教会博士【聖アタナシウス】の時代に教会を苦しめていたアリウス主義は、司教たちの間であまりにも広まっていたため、カトリックの正統性が完全に消滅してしまったのではないかと思わせるほどでした。しかし、教会が再び立ち上がることができたのは、教会に忠実にとどまった少数の司教たちの忠誠と英雄的な証しのおかげでした。この証しがなければ、アリウス主義を倒せなかったでしょうし、今日の私たちの証しがなければ、近代主義と現教皇の世界統一主義(globalist)的背教は倒せないでしょう。

それゆえに、これは教会の内で働くか、教会の外で働くかという問題ではありません。ワインの醸造家たちは主のぶどう園で働くように呼ばれており、いのちを犠牲にしてでも、そこにとどまらなければなりません。牧者たちは主の群れを牧し、猛り狂う狼を抑え、羊たちや小羊たちの救いに関心を持たない雇われ人どもを追い払うように呼ばれているのです。

【ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の司祭たちは、革命を抑止させる力となっている】
このような、隠れた、しばしば沈黙のうちになされる活動が、聖ピオ十世会によって行われてきました。古いミサを執行することが反体制的で破門の理由になると考えられていた時期に、聖伝の炎が消されないようにしたことについて、同会は評価に値します。聖ピオ十世会の司祭たちは、位階階級の人々にとって、脇にささる健全な茨の役割を果たしてきました。

何故なら、聖ピオ十世会の司祭たちの内に位階階級の人々が見てきたのは、位階階級が認めることのできない、信徒たちにとっての比較の対象【=信徒たちは、位階階級の人々を聖ピオ十世会の司祭たちと比較するがそれは位階階級にとって認められない】であり、天主の民に対する裏切りへの絶え間のない非難であり、また「新しい公会議の道」に代わる、認めることのできないもう一つの道だったからです。

彼らの忠実さのゆえに、司教聖別によって教皇に対する不従順が避けられないものになったとしても、この司教聖別のおかげで、聖ピオ十世会は「革新主義者たち」の猛烈な攻撃から自らを守ることができました。またその存在自体が、常に異端者たちや偶像崇拝者たちに好意を示しながらもカトリックの真理に対しては容赦なく硬直的で不寛容であるという「公会議のセクト」の矛盾や誤謬を浮かび上がらせたのです。

私は、ルフェーブル大司教が模範的な証聖者であると考えており、公会議および近代主義的背教に対してルフェーブル大司教がしてきた非難が、これまで以上に重要なものであることは今や明らかだと思います。ルフェーブル大司教が聖座と世界の司教たちから受けた迫害が、「公会議の革命」に抵抗するカトリック信徒たちのために、なによりもまず抑止力となったことを忘れてはなりません。

【キリストの教会は近代主義的公会議体制によって占拠され覆い隠されている】
私はまた、ローマに二つの実体が共存しているという【聖ピオ十世会の】ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教の見解に同意します。キリストの教会は近代主義的公会議の体制によって占拠され、覆い隠されています。そしてその体制は、同じ位階階級のうちに自らを組織して、キリストの浄配かつ私たちの母【であるカトリック教会】に打ち勝つためにその役務者たちの権威を使っているのです。

キリストの教会は、(カトリック教会の内に存しているだけでなく、すなわちカトリック教会だけである のですが)、福者アンナ・カタリナ・エンメリックの幻視によれば、ローマに打ち立てられた「奇妙で途方もない教会」によってぼかされ、覆い隠されただけになっています。この教会は、ローマ教皇庁や各教区、各小教区の中に、麦と毒麦が混ざったように共存しています。私たちは、私たちの牧者たちを彼らの意向をもって裁くことはできませんし、彼ら全員が信仰と道徳において腐敗していると仮定することもできません。

【おじけづいていた信徒や司祭たちが覚醒するのは、緊急に必要で不可避である】
私たちはその反対に、これまではおじけづいて沈黙していた彼らのうちの多くが、混乱と背教が広がり続ける中で自分たちが受けてきた欺瞞を理解し、ついにはその眠りを振り払うことを期待することができます。声を上げている多くの信徒たちがいます。他の信徒たちも、すべての教区に確実に存在する良き司祭たちとともに、必ず後に続くことになるでしょう。

「戦闘の教会」のこの覚醒、私はあえてこれをいわば「復活」と呼びますが、これは必要で、緊急で、また避けられないものです。母親が召し使いに侮辱されたり、父親が自分の所有物の管理人に虐げられたりするのを許す息子はいません。主は、このような苦しい状況の中で、私たちが主の御旗の下でこの聖なる戦いを戦うために主の同盟者となる可能性を与えてくださいます。誤謬と死に勝利なさった王は、ご自分と共に耐え、苦しんだ後に、勝利の栄誉と、それから生じる永遠の報酬が私たちに分け与えられることを許してくださいます。

しかし、天の不滅の栄光にふさわしくあるためには、名誉、自らの言葉を守ること、英雄的行為といった価値観が欠落し骨抜きにされた時代にあって、私たちは洗礼を受けたすべての人が持つ信仰の中の、ある基本的な点を再発見するよう求められています。それは、キリスト教徒の人生が「民兵(Militia)」【職業軍人ではない兵士。普段は別の仕事をしている】であって、わたしたちは堅振の秘蹟によって「キリストの兵士」になるように呼ばれており、そのしるしの下で私たちは戦わなければならないということです。

もちろん、ほとんどの場合、それは実際には霊的な戦いですが、歴史の中で天主の主権と教会の自由の侵害に直面したときには、しばしば武器を取る必要があったことを私たちは知っています。レパントやウィーン郊外でのイスラムの侵略、メキシコでの「クリステロス」の迫害や、スペインでのカトリック信者の迫害を退けるための激しい抵抗、そして今日でも世界中のキリスト教徒に対する残酷な戦争によって、私たちはこのことを教えられています。サタンに触発された天主の敵たちから来る神学的な憎悪を、今ほど良く理解できることはありません。キリストの十字架を思い起こさせるすべてのもの、すなわち聖徳、善と美、純潔への攻撃は、誇りに満ちて立ち上がるよう私たちを駆り立てるのです。それは、私たちが外部の敵に迫害されない権利を主張するだけでなく、何よりも先人たちが何世紀にもわたって行ってきたこと、すなわち、キリストの福音を宣べ伝え、人々や国々を改宗させ、生けるまことの天主の御国を世界中に広げていくことをそのまま実行する、強く勇敢で、聖にして天主を畏れる牧者たちを持つ権利を主張するためなのです。

私たちはみな、「剛毅」のわざを行うよう呼ばれています。この剛毅の徳は忘れられた枢要徳の一つですが、近代主義者たちに抵抗するすべ、即ち天主の属性である愛徳と真理に根ざした抵抗、を知るにあたって、そのギリシャ語である「ἀνδρεία」【アンドレイア】が 男らしい強さ を意味するのは偶然ではありません。

【司祭たちは、恐れることなくトリエント・ミサを行え】
もし【司祭である】あなたがトリエント・ミサを行い、公会議にまったく言及することなしに健全な教理を説教するだけならば、彼らはあなたにいったい何をすることができるでしょうか。おそらくあなたを教会から追い出すでしょうが、その後はどうでしょうか。たとえ地下室や屋根裏部屋の間に合わせの祭壇の上であっても、フランス革命の時に「宣誓拒否司祭」たちが行ったように、あるいは今日でも中国で起こっているように、あなたが聖なるいけにえを更新することを誰も妨げることはできません。

そして、もし彼らがあなたを追放しようとするなら抵抗してください。教会法は、教会の第一の目的を追求するための教会の統治を保証するためにあるのであって、教会を破壊するためにあるのではありません。

離教の責任が離教を糾弾する人々にあるのではないかと恐れるのはやめましょう。そうではなく、その責任は離教を実行する人々にあるのです。離教者たちや異端者たちは、キリストの神秘体を傷つけ、十字架につける人々であって、この処刑人たちを糾弾することによってキリストの神秘体を擁護する人々ではないのです!

【信徒たちは、自分の教区の不敬なミサに与る代わりに聖伝のミサに行く方が千倍も好ましい】
信徒たちは、自分たちの役務者たちがそのように振る舞うことを期待し、現代の誤謬に汚染されていないことを自ら証明する役務者たちを好みます。もしあるミサが信徒たちにとっての拷問の機会となるならば、あるいは信徒たちが冒涜に参加したり、主の家にふさわしくない異端や迷言を支持したりすることを強いられるならば、司祭が聖伝によって私たちに伝えられた儀式で聖なるいけにえをそれにふさわしく執り行い、健全な教理に則った説教をする教会に行く方が、千倍も好ましいのです。

キリスト教徒たちが新しい教会の石やサソリではなく、信仰のパンを求めていることを教区司祭たちや司教たちが理解するとき、彼らは恐れを捨てて、信徒たちの正当な要求に従うでしょう。まさしく雇われ人であるそれ以外の司祭たちや司教たちは、自分たちが何者であるかを明らかにし、自分たちの誤謬と倒錯を共有する人々だけしか自分たちの周りに集めることができなくなるでしょう。彼らは自ら消滅していくのです。主は沼地を乾かし、茨の生えた土地を乾燥させられます。主は、堕落した神学校や規則に逆らう修道院での召命を消滅させられるのです。

【現代の平信徒たちの義務は、良き司祭たちを助けることである】
今日の平信徒たちには聖なる任務があります。それは、羊飼いたちの周りに羊の群れのように集り、良き司祭たちや良き司教たちを慰めることです。彼らが試練に遭うとき、彼らをもてなし、彼らを助け、彼らを慰めてください。不平や分裂が支配するのではなく、むしろ信仰の絆における兄弟愛が支配する共同体をつくってください。そして、天主によって確立された秩序(κόσμος)【コスモス】の中では、民は権威に服従する義務があり、権威がその権力を乱用するときにはその権威に抵抗する以外のことはできないのですから、指導者たちの不忠実のために民が過ちに問われることはありません。

指導者たちは、自分たちに与えられた代理者としての権能を行使する方法について、非常に重大な責任を負っています。私たちは反乱をおこすのではなく、反対をしなければなりません。私たちは私たちの牧者たちの誤謬を喜ぶのではなく、彼らのために祈り、敬意をもって彼らに忠告しなければなりません。私たちは彼らの権威を疑うのではなく、彼らがその権威を使用する方法を疑わなければなりません。

【主は、将来私たちに聖なる聖職者たちを与えてくださるだろう】
主が、教会人たちの過ちのゆえに私たちを罰された後、私たちに聖なる司祭たち、聖なる司教たち、聖なる枢機卿たち、そして何よりも聖なる教皇を与えてくださることで私たちの忠実さに必ず報いてくださることを、私は信仰から来る確信をもって、信じています。

しかし、これらの聖人たちは、私たちの家庭や共同体、教会から生まれます。ですからそこでは、絶え間ない祈りや聖なるミサと秘蹟への頻繁な参列によって、また諸聖人の通功の許しによって私たちの罪と権威を行使する人々を含む兄弟たちの罪を償うために天主の御稜威にお捧げする犠牲と償いという捧げ物によって、天主の恩寵が培われなければなりません。信徒はこの点で基本的な役割を果たします。つまり、天主への愛と畏れにおいて教育を受けた若者たちが、いつの日か責任ある父親と母親になるだけでなく、ふさわしい主の役務者、男女の修道会における主の使者、そして市民社会における主の使徒となることができるように、信徒が家庭内で信仰を守ることです。

【真の従順】
反逆の治療法は従順です。異端の治療法は聖伝の教えへの忠実です。離教の治療法は聖なる牧者たちへの子としての献身です。背教の治療法は天主とそのいとも聖なる御母への愛です。悪徳の治療法は聖徳の謙虚な実践です。道徳の堕落の治療法は常に天主の御前で生きることです。

しかし、従順を無神経な追従に貶(おとし)めてはなりませんし、権威への敬意を宮廷におけるへつらいに貶めてもなりません。そして、牧者に従うことが信徒にとっての義務であるならば、usque ad effusionem sanguinis.(自らの血を流すまで)天主に従うことが、牧者にとっての更に重大な義務であることを忘れないようにしましょう。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2020年9月1日

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