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マイケ・ヒクソン博士とのインタビュー 使用されない教皇祭壇について|迫害や集会禁止から逃れるために祭壇が屋根裏部屋や地下室にあったとしても、私たちは祭壇の周りに祈るために集まらなければなりません。(2020年12月23日)

[編集者注]
2020年12月30日、教皇様の祖国であり南米で最大のカトリック人口を持つアルゼンチンは、堕胎を「合法化」の法案が、38対29で通過しました。議会の前で結果を待っていた数万のプロライフの人々は、知らせを受けると悲しみに覆われ、泣き出すものも多くいました。堕胎派の9回目の試みでした。南米のその他の小さな国々もドミノ倒しのように、堕胎合法化になし崩されていくだろうと言われています。

フランシスコ教皇様が、環境問題に取り組んでいる間、結局アルゼンチンの罪のない子供たちへの死刑を合法化させ、これに対して何の影響力も及ぼすことがなかったことが明らかになりました。非常に悲しい思いがします。

ヴィガノ大司教はこう言います。「今日、私たちはもはや単なる「信仰の喪失」だけを語ることはできず、その次の段階に注意を払うべきだ」と。「その次の段階」とは「背教そのもの」のことです。
「典礼改革によるカトリックの礼拝の最初の転覆が、御聖体への体系的な冒涜を含む異教礼拝の形態へと進化しているように、また、特に新型コロナウイルス感染症を口実に手による聖体拝領を押し付けることで、古くからの典礼に対するこれまで以上に明白な嫌悪へと進化しているように、本当のまさに背教そのものが表明されるという段階です。」

ヴィガノ大司教は、どんなことがあっても「天主の不変のみわざに対する超自然的な信仰」を断固として守ることを訴えています。「なぜなら、民が牧者たちに示すべき従順は、天主の栄光と霊魂の救いを目的としているからです。」つまり信仰に反することが命じられた場合、それに従ってはならないと言うことです。本当の従順とは、天主に従うこと、信仰を守ることだからです。
聖パウロは、アンティオキアで、初代教皇であった聖ペトロに面と向かって反対したことがあります。ペトロに非難するところがあったからです。しかし聖パウロは、福音の真理にしたがって正しく歩んでいないのを見て、皆の前で聖ペトロを叱責しました。アシジの諸宗教の集いが予告された時、ルフェーブル大司教が声を上げてそれに反対し、それを糾弾したことを思い出します。
ヴィガノ大司教は、今回「私たちは、牧者の使命への裏切りはすべて糾弾し、これらの試練の時期を短くしてくださるよう主に懇願します」と言います。ヴィガノ大司教は、カトリック信仰を守るために御降誕の時の羊飼いたちや、東の国の博士たちに倣うように訴えています。「迫害や集会禁止から逃れるために祭壇が屋根裏部屋や地下室にあったとしても、私たちは祭壇の周りに祈るために集まらなければなりません。なぜなら、秘密のチャペルや放棄された教会という貧しさの中にあっても、主は祭壇に降りてこられ、私たちの救いのために神秘的にご自身をいけにえにしてくださるからです。」

ヴィガノ大司教のマイケ・ヒクソン博士とのインタビュー
使用されない教皇祭壇について

Omnes dii gentium dæmonia.
Psalm 95:5
異邦の神々はすべて悪魔である
詩篇95章5節

【LifeSiteNews】大司教様、私は最近の記事で、バチカン大聖堂の教皇祭壇が、2019年10月にパチャママの偶像に捧げられた供え物によって冒涜された後それほどたたないときから、もう使用されなくなっていることを指摘しました。パチャママへの儀式のとき、ベルゴリオと彼の廷臣の眼前で、非常に重大な冒涜が行われました。この件について、どのようにお考えでしょうか。

【ヴィガノ大司教】アマゾン・シノドスの閉会式の際にバチカン大聖堂が冒涜されたことにより、信仰告白の祭壇【訳者注:聖ペトロの墓の真上に設置された教皇祭壇】が汚されました。私は、教会や祭壇へのこのような、そして他の似たような冒涜行為は、過去に行われた他の似たような行為を、ある意味で再提示しているのであって、その本質を理解することができるということに気がつきました。

【LifeSiteNews】何のことをおっしゃっているのですか。

【ヴィガノ大司教】私が言及しているのは、サタンがキリストの教会に対して解き放たれたすべての時代です。すなわち、初期のキリスト教徒の迫害からビザンチン帝国に対するペルシャのホスロー【一世。6世紀のササン朝ペルシャの王】の戦争まで、イスラム教徒の偶像破壊的な怒り【7世紀】からドイツのランツクネヒト【神聖ローマ帝国の傭兵】の手によるローマ劫略【1527年】まで、その後はフランス革命、19世紀の反聖職者主義、無神論的共産主義、メキシコのクリステロス戦争とスペイン内戦、第二次世界大戦中・大戦後の共産党員による凶悪犯罪および今日私たちが世界中で目にしているいくつかの形のキリスト教恐怖症に至るまでのものです。革命のたびに、変わることなく、さまざまな形態のすべてにおいて、革命自らの持つルチフェル的本質を裏付けてきており、聖書に登場する、蛇のすえと女のすえの間の、サタンの子らと至聖なる童貞の子らの間の敵対関係を可能にしているのです。祝されし御母とその子らに対するこの獰猛さは、他に説明がつきません。

私は特に、【フランス革命において】恐怖政治が最高潮に達した1793年11月10日にパリのノートルダム大聖堂で行われた「理性の女神」の即位式のことを考えています。この日も、革命家たちの地獄のような憎悪は、天主の御母への崇敬を、フリーメーソンの宗教の象徴として立てられた娼婦への崇拝で置き換えようと欲しており、椅子かごに載せて革命家たちの肩で運ばれ、聖域に置かれました。ここにはパチャママとの多くの類似性があり、革命家たちは、彼らにその発想を与えた地獄の心を明らかにしているのです。

La déesse Raison promenée dans les rues de Paris
バチカンに持ち込まれたパチャママ

ノートルダム大聖堂が冒涜される数カ月前の1793年8月10日、バスティーユ広場にエジプトの女神イシスを装った「理性の女神」の像が建立されたことを忘れてはなりません。現在サン・ピエトロ広場に立っている恐ろしい「降誕の場面」にも、古代エジプトのカルトへの言及が見られるのは重要なことです。しかし、明らかに、これらの出来事に見られる同類性に、全く新しいものが付随しています。

【LifeSiteNews】この新しい要素が何を構成しているのか説明していただけますか。

【ヴィガノ大司教】私が言及しているのは、公会議の前までは、あるいは控えめに言えば、今の「教皇職」の前までは、教会の外部の敵によって冒涜や汚聖が行われていたのに対し、それ以降のスキャンダルには、位階階級の最高レベルの人々の積極的な関与が見られ、それに加えて司教たちの責められるべき沈黙があり、また信徒をつまずかせているという事実です。ベルゴリオの教会は、ますます不安にさせる気味の悪いイメージを自らに与えています。そのイメージには、カトリックの諸真理を否定することに加えて、本質的に反カトリック的かつ反キリスト教的なイデオロギーをはっきりと肯定することがあり、またそのイメージには、異教の神々の、つまり悪魔の偶像崇拝がもはや隠されておらず、冒涜の行為や聖なるものを冒涜することによって悪魔をなだめているのです。聖ペトロの告白の祭壇に汚れた鉢を置くことは、象徴的なものだけではない、一つの正確な価値と一つの目的を持った典礼的な振る舞いなのです。「母なる大地」の偶像【パチャママ】が持ち込まれていることは、天主と至聖なる童貞に対する直接的な侮辱であり、ある意味でベルゴリオの祝されし御母に関する不敬な発言の数々を説明している明らかなしるしです。

キリストの教会とローマ教皇の職を破壊しようとする者たちが、最高の玉座からそのようにするのは驚くべきことではありません。ラ・サレットの聖母の預言によれば、「ローマは信仰を失い、反キリストの座となるでしょう」。今日、私たちはもはや単なる「信仰の喪失」だけを語ることはできず、その次の段階に注意を払うべきだと私には思われます。その段階とは、典礼改革によるカトリックの礼拝の最初の転覆が、御聖体への体系的な冒涜を含む異教礼拝の形態へと進化しているように、また、特に新型コロナウイルス感染症を口実に手による聖体拝領を押し付けることで、古くからの典礼に対するこれまで以上に明白な嫌悪へと進化しているように、本当のまさに背教そのものが表明されるという段階です。

本質的には、革新主義者の真意を隠そうとする、多くの形態の初期の「慎重さ」が減少しつつあり、天主の敵が実行する仕事の本当の性質が明らかになりつつあります。【1986年に】アッシジでの鶏のや他のスキャンダルを正当化した平和のための共通の祈りという口実はもはや必要ありません。人間の間の兄弟愛は教会の救いの使命と同様に天主を脇に置いておくことができる、ということが理論化されているのです。

【LifeSiteNews】2019年10月から始まる出来事、特にベルゴリオがキリストの代理者の称号を放棄したこと、教皇祭壇でミサを捧げなくなったこと、サンタ・マルタの家での公式ミサ挙行を中止したことについて、どのように判断されますか。

【ヴィガノ大司教】哲学的原理「Agere sequitur esse」【行動は存在に従う】は、すべてのものはそれが何であるかに従って行動することを教えています。

キリストの代理者と呼ばれることを拒否する者はそれが誰でも、明らかにその称号が自分にはふさわしくないという認識を持っている、または、天主として認識して礼拝することを自分が望んでいないことを、自分の言動によってベルゴリオが示しているそのお方の代理者であるという可能性を、軽蔑の目で見てさえいるのです。あるいは、もっと簡単に言えば、教会のトップにある自分の役割が、カトリックの教皇という概念と一致していなければならないとはみなしておらず、むしろ、その概念を「最新化」して「脱神話化」したものだとみなしているのです。同時に、ベルゴリオは自分をキリストの代理者とはみなしていないため、そのように【教皇のように】振る舞うことを免れることもでき、不用意に教導職を冒涜し、キリスト教の民全体につまずきを与えているのです。使徒ペトロの墓の上に建てられた祭壇において最高司祭として(in pontificalibus)祭儀を行うならば、このアルゼンチン人を消し去ってしまい、彼の奇妙な行いや、教皇の役割を行うたびに隠そうとしても隠し通せない彼の絶えずうんざりした表情を覆い隠すことになってしまいます。それよりも彼は、完全に都市封鎖されている中で、聖ペトロ大聖堂の人のいない「サグラート」(Sagrato:前庭)で目立つように立ち、そうでなければ天主に向けられるであろう信徒の注意を自分自身に引く方がはるかに良いのです。

【LifeSiteNews】すると、大司教様は、教皇フランシスコの行為の「象徴的」な価値を認識しておられるのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】象徴には、それぞれの正確な価値があります。つまり、彼の名前の選択や、サンタ・マルタの家に住むことに決めたこと、そしてローマ教皇にふさわしい紋章や祭服を放棄したこと、たとえば赤いモゼッタやロシェットやストラ、あるいはファッシア(帯)につける教皇紋章などです。カトリックの内容を具体的に想起させるものすべてに不寛容である一方で、冒涜的なものすべてに執拗にこだわることは象徴的です。また、ミサの聖変化の際、ベルゴリオがカリスを完全に覆い、手でふさぐ仕草も象徴的です。それはまるで、聖霊が流れ込むのを妨げるかのようです。

同様に、ご聖体の前にひざまずく行為をすることで、人がまことの現存の信仰を証(あか)しして、天主に対してラトリア(礼拝)の行為を行うのと同じように、御聖体の前にひざまずかないことによって、ベルゴリオは、天主の御前でけんそんでいることを望んではおらず、移民やアフリカのある共和国の高官たちの前では手と膝をつくことには問題がないと、公に宣言しているのです。そして、パチャママの前にひれ伏すことで、何人かの修道士、修道女、聖職者、および信徒は、本当のまさしく偶像崇拝を行って、はなはだしいほど偶像を敬い、悪魔に礼拝を捧げたのです。このように、象徴、しるし、儀式的な身振りは、ベルゴリオの教会が、自らが何者であるかを明らかにするための道具なのです。

新しい教会のこれらの「典礼」、多かれ少なかれ暗示されているこれらの「儀式」、世俗の典礼から借用されたこれらの要素といったものはすべて、決して偶然起きたものではありません。これらの要素は、オヴァートンの窓【多くの人に受け入れられる思想は窓のように一定の範囲の中に限定されているが、その窓は大きくなったり動いたり変動するという考え】の偏移の一つを成し、現実に、自らの発言や「教導職」の行為においてベルゴリオがすでに理論化していたものの方へと動かそうとしているのです。

一方で、ヨハネ・パウロ二世の額にシヴァ神のしるしをつけた呪い師や、アッシジの聖櫃の上で礼拝されていた仏陀は、現在なされている恐るべきことと完全に一致していると理解されるかもしれません。それは正確に言えば、社会的領域においては、9カ月目の妊娠中絶が許されると考える前には、【レイプなど】もっと限定的な場合で正当化しなければならなかったように、また、同性間の結婚を合法化する前には、同性愛者の法的保護が最終的に男女間の自然な結婚の制度に疑問を投げかけることはないだろうと人々に信じるようにさせるのが慎重に好まれていたようにです。

【LifeSiteNews】大司教様、これらの出来事はさらなる発展があるとお考えですか。

【ヴィガノ大司教】永遠の大祭司なる主が、位階階級の全面的な倒錯であるこの行為に終止符を打ってくださらないならば、カトリック教会は、教会の上にやりたい放題自分のやり方を押し付けるセクトによって、ますます隠されてしまうでしょう。私たちは、キリストの約束と聖霊の特別な援助を信頼していますが、教会の最高レベルの背教は、避けることのできない終末論的な[終末の時代の]出来事の中で必要とされる部分である、ということを忘れてはなりません。

この点まで導かれるために据えられた前提条件は、第二バチカン公会議までさかのぼるのですが、この前提は、さらに明確な方法で、ベルゴリオの教会の指導者たちによる「背教の宣言」へと必ず至るものと私は信じています。敵【悪魔】は、そのしもべたちに忠実さを要求し、最初のうちはバチカンの庭園で礼拝される木の偶像や、あるいは聖ペトロ大聖堂の祭壇に置かれる土や植物の供え物に満足しているように見えたとしても、間もなく、永遠のいけにえに代わる公開のかつ公式な礼拝を要求するようになるでしょう。かくして、聖所に立つ荒らす者のいとわしきものに関してダニエルが預言したことが実現することになるのです。私は、「『荒らす者のいとわしきもの』が聖所に立つのを見たら」Cum videritis abominationem desolationis stantem in loco sancto(マテオ24章15節)という聖書の細かい表現に注目しています。このいとわしきものは「立つ」とはっきり書かれています。すなわち、このいとわしきものは、自分にとって最も異質かつ無縁な場所で、自らを大胆かつ傲慢に押し付ける地位につくことになるでしょう。このことは、非難を表すのに十分な言葉がないほど、恥辱であり、つまずきであり、前例のないことなのです。

【LifeSiteNews】このまま続いていけば、私たちには何が待ち受けているのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】私の考えでは、私たちが目撃していることは、反キリストの国を確立するための全体リハーサルです。その前には、教会に対する最後の迫害を実行することになる者【反キリスト】の先駆者である偽預言者の説教が行われ、そのあと、私たちの主の決定的で圧倒的な勝利がやって来るのです。

教皇祭壇の「象徴的な不使用」は、この「教皇職」によるつまずきを見て見ぬふりをする人々への警告であるだけではありません。それは、或る意味で、ベルゴリオが、教皇職と教会自体の実質的な突然変異が起こっていることに注意を向けるように私たちを慣らせたいと望むやり方です。つまり、彼の中に、キリストがご自分の羊と小羊を養えとお命じになったローマ教皇の長い系統の最後の人を見るだけでなく「多国籍慈善団体」の最初のトップをも見るということでもあるのです。この多国籍団体は、「カトリック教会」という名称を横取りしますが、その唯一の理由は、全体的な宗教的危機の時代であったとしても、それは並び比べることが難しい地位と権威を彼が享受することを許すからです。

ですから、矛盾は明らかです。ベルゴリオは、自分が教皇として認められている場合にのみ、効果的にカトリック教会を破壊することができることを知っていますが、同時に、彼は用語の厳密な意味での教皇職を【教会を破壊するために】行使することはできません。何故なら、そうすることは、必然的に彼がキリストの代理者かつ使徒たちのかしらの後継者として話し、そう振る舞い、そう見られることを必要とするからです。

それは、民間や政治の領域で見られるのと同じ矛盾です。その領域では、公務を管理したり「共通善」(bonum commune)を推進したりする権限を持つよう定められている人々が、それと同時にエリートたちの密偵であり、国家を破壊して市民の権利を侵害するという任務を担っているからです。ディープ・ステートとディープ・チャーチの背後には、常に発想を与えた同じ者がいるのです。つまりサタンです。

【LifeSiteNews】このような深淵への突進を防ぐために、信徒や聖職者にできることは何でしょうか。

【ヴィガノ大司教】教会は教皇のものではありませんし、欺瞞と詐欺によって権力を握ることに成功した異端者や姦通者の一団体のものでもありません。それゆえ、私たちは、教会の教父たちが助言したように、天主の民の中にある天主の不変のみわざに対する超自然的な信仰を、抵抗のわざと一つにすべきです。なぜなら、民が牧者たちに示すべき従順は、天主の栄光と霊魂の救いを目的としているからです。したがって、私たちは、牧者の使命への裏切りはすべて糾弾し、これらの試練の時期を短くしてくださるよう主に懇願します。そしてある日、ベルゴリオから、天主との交わりを保つためには、天主のお怒りを招くような行為をしなければならないと言われたら、ベルゴリオは偽者であり、そのような者には何の権限もないということを、さらに確認することになるでしょう。

ですから、祈りましょう。救い主の言葉とその最後の勝利を心に留めて、熱心にたくさん祈りましょう。私たちは、ベルゴリオとその共犯者のつまずきについてではなく、キリストの教えに忠実であるかどうかについて裁かれるのです。その忠実とは、天主の恩寵に生き、秘蹟を頻繁に受け、天主の役務者たちの救いのために犠牲と償いを捧げることから始まるのです。

【LifeSiteNews】大司教様の今年のクリスマスの願い事は何でしょうか。

【ヴィガノ大司教】私の願い事は、このような試練の時代が、王たるキリストが君臨しないところでは、必然的にサタンの圧政が確立され、恩寵が君臨しないところでは、罪と悪徳が蔓延し、真理が愛されないところでは、人々は誤りと異端を受け入れることになるということを、私たちが知ることができるようにしてほしいということです。今に至るまで多くのぬるま湯のような霊魂が天主に立ち返る方法を知らず、自分の存在についての十分で完全な実現を天主のみに見いだすことができることを認識しなかったのなら、おそらく彼らは今、天主なしでは私たちの人生は地獄になるということを理解できるでしょう。

羊飼いたちが、飼い葉桶に入れられていたものの、古代に君主の特権とされていた"おくるみの布"に包まれた王たる幼子の足元に礼拝のためにひれ伏すように、迫害や集会禁止から逃れるために祭壇が屋根裏部屋や地下室にあったとしても、私たちは祭壇の周りに祈るために集まらなければなりません。なぜなら、秘密のチャペルや放棄された教会という貧しさの中にあっても、主は祭壇に降りてこられ、私たちの救いのために神秘的にご自身をいけにえにしてくださるからです。

ですから、一人の教皇が、私たちの主が使徒たちにお教えになり、何世紀にもわたってそのまま受け継がれてきた典礼で、聖ペトロ大聖堂の告白の祭壇で聖なるいけにえを捧げるために戻ってくる日を私たちが見るようになるよう祈りましょう。これは、教皇職とキリストの教会の復活の象徴にもなることでしょう。

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