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母がしゃべった(!)日記。

母のお見舞い、どうなることかと不安だったけど、話しかけたらふつうに話が通じていた。でも発話の方が完全じゃなくて、母自身ははっきりと受け答えしてるつもりでも、ところどころホニャホニャしてて聞き取りづらいところがあった。まぁ、もともと快活で良く話す人だったから言語を扱う部分は回復が早かったのかもしれない。「(倒れなければ会うはずだった)Cちゃんに電話してほしい、番号は090・・」みたいに、記憶のほうもしっかりしていて正直すごいなと思った。つい最近電話で話したことなんかも覚えていて「R太朗は・・焼き鳥屋さん・・バイトやってるの?焼き鳥のおみやげ・・もってくるの?」みたいなことも、普通に話していた。ただ左半身が麻痺している状態で、リハビリはかなり頑張らないといけない状況らしい。どんな状態で帰宅するのかが全然予想できなくて、いまのところ母の回復力に賭けているような感じ。杖をついて歩くところまで回復してくれたら御の字だけど・・まずは命が助かったことに感謝しなければ。

スタッフの方々はみんな親切で、母が退屈しているだろうと思っていろいろテレビのチャンネルを選んでくれるみたいなんだけど、母は「わたしは、静寂が、好きなんです」とか言ってテレビをつけるのを断っているらしい。普段もテレビを置かずラジオだけで暮らしていることを伝えると、スタッフの方が驚くそうだ。

母はわたしと同じで、洗濯が好きだ。今日ベランダで洗濯を干していてふと、母もきっと洗濯がしたいだろうな、と思った。普段家でしている、なんとはない、当たり前のことをしたくてたまらないだろう。そして、自分の体のことより、父の日常を心配しているだろう。

父の方はほぼ自給自足の生活で、タバコ代があれば十分だといって、わたしが持っていった生活費を受け取らなかった。「お母さんのものが要るようになったときのために取っとけー」と言われたので、封筒に入れたお金はそのまま東京に持って帰った。病院の近くに弟が住んでいるので、今のところ病院で要るものは弟が買ってきてくれている。わたしは普段東京で何もできないから、買い物代はこちらで負担するよと声をかけておいた。弟はレストランバーの雇われ店長として遅くまで働いているのに、病院の手続きやら何やらを全て済ませてくれたのだった。母が思ったよりましな?状態だったので、待合室では三人とも話が弾んだ。これからどうなるかわからないけど、暗くなる必要のないときは暗くならないようにしようと思った。少なくとも母は、そうやって貧しさや厳しい状況を乗り切ってきた。悩んでも一銭にもならない。まさに今が、そういう時だと思うので。


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