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善意という奇跡、計画的陳腐化

おとといはフランソワーズ・サガン『打ちのめされた心は』(河野万里子訳・河出書房新社)を、今日はアリ・スミス『春』(木原善彦訳・新潮クレストブックス)を読んだ。とくべつ海外文学好きというわけではないんだけど、表紙がかわいいのが多くてつい買ってしまう。そして2冊とも気分で買って正解だった。狭い部屋で縮こまって読んでいるのに、気持ちはフランスへ行ったりイギリスへ行ったりしている。今日はスミスの作品に触発されて移民問題について考えた。〇〇問題というと議題が大きすぎるように感じるけど、それはすぐそばにいる隣人の問題だし、将来の自分の問題かもしれないのだ。多様性とか共生という言葉が流行るのと裏腹に、自分自身の心は狭く、意地悪になっているようにも感じる。立派になんか生きられない、と最初から諦めているような、ただ日本人でいて何が悪いんですか、みたいな気持ち。でも物語のなかには奇跡のような女の子が出てくる。不当な扱いをまっとうな言葉でひっくり返していく、善意という奇跡。そしてそれは奇跡なんだろうか、とも思う。勇気を出せば、そう生きられるのに、わたしは、あるいはわたしたちは何故そうしないのか。何に引っかかっているのだろう。誰の目を気にして親切をやめてしまっているのだろう?

小説とは直接の関係はないのだけど、物語の中に「計画的陳腐化 Planned obsolescence」のような言葉(「内蔵された老朽化」) が出てきて気になったので、それを改めてウィキペディアで調べてみた。新しいのを売るためにわざと壊れるようにするやつ、という漠然とした意味は知っていたのだけど、1920年代からあるマーケティングの手法、と知って、ものを知らないわたしはぶったまげた。バブルがはじけて景気が悪くなってから、日本の各種メーカーの中でコッソリ始められたことなのかなと思っていた。ものづくりの世界ではわりと当たり前のやり方らしい。

でもさ!! 10年保つものを作れる技術者が5年しか保たないものを作るのってすっっごい難しくない? 手を抜くのってどうするの? それも技術?・・高度な? 職人さんを捕まえて、どうするのだかを聞いてみたい。でも包丁一本だって様々に値段が違うのだし、毎度最高のものばっかり作ってるというわけでもないのか。冷蔵庫やテレビなんかも、どうなんだろう? わたしの使っているパソコンだって、本当はどんなものなのか、何ができるものなのかをよくわかっていない。・・そう考えると、自分と世界が隔絶されているように感じる。問題意識をもっていても、自分で物事の仕組みについての知識をもたなければ結局は騙される側になっていってしまう、ということなんだね。もうすっかりそうなっている、わたしなんかとくに。

さっきとくらべると断続的な雨。そろそろ眠る薬をのまなければ。知識も感じ方も、一晩寝たら今風にアップデートされてたらいいのに。日々古びていくわたし。




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