【ベトナム語】外国語学習に関して"私の多読" #2
そんなこんなでベトナムでサバイブする英語力を鍛えていった私。
前述のように2000年は、雑誌『CREA』が初めてベトナムを取り上げ、それがきっかけで雑貨ブームが物凄いことになった年。
その代理店で、過去にハンドリングした一月の最大ツアー客数が"800人"と聞いたところ、私が入社した年の夏に突然"2000人"を超え、日本からの予約Faxの山に、手配スタッフが"家に帰れない"と泣きながら処理をしていました。
当然、航空会社、ホテルにレストランなどもその急激な観光客の増加についていけず、トラブルが鬼のように発生、新人の私は訳が分からないまま その嵐に巻き込まれ、日々がドタバタ、とてもベトナム語の勉強どころではなくなってしまったというのが言い訳の一つとしてあります。(社長から"お前はベトナムで起こりうる全てのトラブルを1年で経験したぞ"と言われた事も懐かしい)
そんな訳で、ベトナム語熱が再発するのは、2002年にJAL成田-ハノイ線が就航する事になり、ハノイ支店に移った後になります。
ちなみにそれまでハノイは日本人常駐はなく、ホーチミン市から定期的に人を送っていましたが、誰もが半年以上持たず、直行便就航にあたり、一人日本人を置く事になった時も誰も行きたがらないので、では 私が行きますよと手を挙げた次第です。まぁ、私は最初に北から入った人なので、古巣に戻る感じで抵抗はなかったですし。
ハノイに戻った後は、直行便就航までに、ホテルやレストランの仕込み、観光コース作りなど準備はありましたが、ホーチミン市での怒涛のトラブル対応の日々に比べれば気持ちは遥かに楽だし、楽しい。
まぁ、実際に直行便が飛び、観光客が増えると、社会主義色が色濃く”サービス"という概念がないようなものだった当時のハノイ。観光業はまさに0から立ち上げるようなもので、そこはまた汗と涙の日々となるのですが。
そうこうして気がつけば 自分も三十半ば。将来を考えれば不安も覚えようというもの。その頃には、"ここまで来たらもう自分はベトナム専門でいくしかない"と、そのためには"ベトナム語を上達させる事"が必須となった訳です。
さて、そこでどうしたか?というところについて書きたかったのですが、長くなってしまったのでまた次にしたいと思います。
人生も後半戦に突入、ベトナムに来てからの四半期ほどは、本当に、人生詰んだか?みたいな時もありましたが、試行錯誤で山超え谷超え、語学を信じ、今はこうして半生を振り返る事もでき。さらにこれら拙文を読んでいただける方々がいることは本当にありがたい限り。常に感謝の気持ちは忘れないようにしています。
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