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疑似恋愛とは何だったのか

ひと昔まえ、海外風俗トラベラーの間(在住者も含む)では疑似恋愛というのが流行ったように思う。今でもSNS上ではリアルタイムで近況が流れているのをチラホラ見かける。なぜあれほどに擬似恋愛が流行ったのか、擬似恋愛とは何だったのだろうか。

この記事の疑似恋愛とは架空の人物やアイドルなどを対象に妄想の世界でする恋愛ではなく、実際に人物(主に性風俗に従事する女性で異国人)が存在し、実世界で行う恋愛を指すことに注意したい。

本物がない偽物が存在しないように、疑似恋愛が初めての恋であることはありえない。みなが傷つけ、傷つけられ終わった恋のあと「本当の恋とは何か?愛とは何か?」という問いを自らに向けて煩う。

人生とは何か、生きるとは何かというようなこの種の問いに答えが出ないのは私たちが原因と結果を取り違えているせいであることが多い。例えば、
「やる気がおきないから行動ができない」というのは原因と結果が逆であり、実際は行動しているとやる気が出てくるという答えになかなか到達できない。

「愛とは何か?」というこの難問に答えるために海外風俗トラベラーは恋愛対象に「恋愛対象ならざるもの」をあえて選択し、この答えにアプローチしようとしたのではないかと思う。つまり恋愛対象ならざるものを通して愛の本質を限定づけようとした。

疑似恋愛のテーマは「愛とは何か?」という問いかけである。何が愛を愛たらしめているのか?情愛を真に基礎づけているのは何か?彼らもまた傷つけ、傷つけられ終わった恋のあとにこの問いを自らに向けて、実に真摯にその問いに取り組んだ。

ふつうの恋愛で保証されているはずの基礎的な部分をすべて取り除いた後になお「残るもの」があり、それを基として真に愛を構築することができるのであれば、それこそが真実の愛を担保する鍵に違いないと。

相手からは会ってくれない、コミュニケーションが十分にとれない、(仕事とはいえ)現在進行形で他の男性とセックスをするなど恋愛対象には通常あり得ない、ふつうの恋愛が持ちえる一切の条件がないこの絶望的状況下で真に愛を構築する足がかりになるものこそが、答えではないか。彼らはそう問いを立てたのである。

疑似恋愛の結末は人それぞれである。だから愛とは何かの結論も人それぞれだと私は思う。

私がわかっていることの一つとして、本当の恋は生きている恋であり、それは必ず破綻する。大切なものは壊れる運命にあるからこそ、大切なものであり、壊れないものに私たちは愛着を抱くことはできない。だから本当の恋とは失われるのが宿命づけられている恋のことである。いずれ死すべきものであることに恋人たちが気づき、それを心の底から恐れているような恋である。

絶望的状況下で始まる二人の恋はいつ壊れてもおかしくない、そして壊れやすいほどにその恋は価値を帯びる。決してまわりから応援されることもなく、友人は「騙されているじゃないの?」と助言し、失敗させるための協力を惜しまない。

いかに華やかに盛大に感動的に文学的に恋に失敗するか、深く傷つくことができるのか。本当の恋はそれを達成するための選択をし続ける、無謀でけなげな哀しい企てである。しかし、失敗を宿命づけられた企て以上に私たちの欲望をかき立てるものはないように思う。

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