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不味いものを「不味い」と言わないのが大人の条件


ウドンタニの豚骨ラーメン

タイの地方都市ウドンタニで食べた豚骨ラーメンが美味しかったので以前エックスでポストしました。このラーメン屋は赤提灯を用いた日本風の店作りになっていて雰囲気良し、価格も70バーツ(約300円)とリーズナブルにラーメンを味合うことができます。

一部の人たちからは、ウドンタニの豚骨ラーメンが「不味い」というポストを見かけました。このポストに追随して幾つかの人たちも同様な意見を述べています。

2位で嬉しかったですか?

「2位で嬉しかったですか?」というワードが7月に注目を集めました。これは2024年7月に行われた東京都知事選の開票後に、あるコメンテーターが知事候補者に質問した言葉です。

この「2位で嬉しかったですか?」という質問には多くの視聴者が反感を持ちました。なぜなら、その質問には敬意のカケラもなかったからです。

一部を除く候補者は当選するために立候補し、2週間ほど当選するために身を粉にし、選挙活動をしていたはずです。候補者だけではありません、応援してくれるボランティアなど多くの周りの方々も当選するために動いています。立候補する事前の準備も含め、私には想像することができない困難と大変さがあるのだと思います。そうした過程を経ても当選するのはたった一人だけです。

そこに「2位で嬉しかったですか?」という質問です。この敬意のない質問に対して「嬉しいです」と答える候補者はいないと思います。

ウドンタニの豚骨ラーメンでもなんでも、およそ世の中に「不味い」ものを作ろうとして作っている人はいません。だからそれに「不味い」といってしまうのは敬意を欠く行為だと私は思います。それでも「不味い」というのなら、誰もいないところ、誰にも聞こえない、心の中でいうべきです。

不味いってなに

ポストへの反応では「不味い」と言ってあげることがお店のためになるというものがありました。これは果たしてそうなのだろうかと疑問です。

ひろゆきさんが以前に不味い食べ物は存在しないというポストしていました。これは多くの料理人がいう「料理の美味しさは味のバランス」というのと同義ではないかと思います。つまり「不味い」というのは自分にとって味のバランスが悪いということです。

だから、ただ単に「不味い」とレビューすることがお店のためになるとは思えません。「不味い」と言わずに「もう少し塩味があった方が好み」「冷めているより温かい方がよりいい」「食材の臭いが苦手かも」など解像度を上げること、「こうしたら自分にとって好みになるかもしれない」といったレビューの方がお店のためになるはずです。

また、このお店は「不味い」から皆には来て欲しくない、だからレビューするんだといった意見もありました。

「不味い」というのはその人の好み(味のバランス)によります。だから自分の「不味い」だけをもって、なぜ他人の評価に影響させたがるのか、オレはもっと美味しいものを知っている、いわゆるマウントをとりたいのか、どちらにせよそれらに私は不快感を覚えます。

白黒つけること

自分自身の感じたことを忖度なく、ハッキリさせるということに重きを置く人が多くいるように思います。そしてここ数年で人気になった正論を振りかざして「論破」したがる人も増えました。

「オレはオレの感じたことを忖度なく、ハッキリという、それの何が悪いんだ。不味いものは不味い。何か問題ある?」

ウドンタニの豚骨ラーメンについてポストした後にはこういった意味のDMがいくつか届きました。

相手を正論で勢いよく論破することの目的は正論のプロセスそのものにあるため、それに反対する人間が論じるものには何も与しません。だから正論により間違いとされる立場のものは、たとえ劣勢になろうが少数になろうが鉄壁の守りを築き上げる。壁を強く殴れば殴るほどその反作用も強くなるように、反対の立場はしぶとく簡単に潰れることはありません。

SNSでも実社会でも、お互いの意見が合わなかった時に勢いよく相手を論破したことで、物事が早く進んだ光景を私はみたことがありません。

ラーメン屋に「不味い」というだけのレビューをしてもラーメン屋はその意見を簡単に聞き入れることはないと思います。客が感じた「不味い」は主観なのだから反論する余地がない正論です。しかし、その正論は相手のことはちっとも含まれない、忖度なくハッキリという自分を正当化するプロセスに過ぎません。だから、そんな立場が多数派になろうとも、ラーメン屋は意固地になって折れようとはしません。

「反対派も賛成派もみんなまとめて顔が立つような手を考える」これが打開策の一つであろうと思います。

私は不味いものを美味いといった方が良いと言っているわけではありません。不味いものに出会った時に、「不味い」と言わずにどのように表現するのかが重要ではないかと思っています。

「まあまあ、Aさんにもお立場というものがあるわな。かといってBさんも、このままでは引っ込みがつかんわな。じゃあ、あいだをとって」

このような形で話を進めるのは、要するに正しい間違っているという議論を棚上げしても対話の道筋さえ確保していればあとは上手くできると思っているからです。これは対立した問題を早く解決する一つの方法だと思います。

本当のことをわざわざ言わない大人

大人の条件をネット検索すると無数に出てきます。私が考える大人の条件の一つには「本当のことをわざわざ言わない」ことだと思っています。

小さい頃、同世代の子供たちが何か不満があると「しね」と言っていたのを思い出します。恥ずかしながら私もそのような乱暴な言葉を発していたはずです。しかし、年齢を重ねると不思議に使う人は周りからは減りました。

それは「しね」ということが不適切であることを理解し、何か不満に思うことがあっても表現を変えて表すことができるようになったからだと思います。

小さな子供が「不味い」というのはわかります。それは「不味い」以外の表現方法を知らないからです。しかし、大人は好みでない食べ物に出会った時に「不味い」以外の言葉で表すことができるはずです。

それは忖度なくハッキリした言葉と比べ、歯切れの悪い、曖昧模糊としていて腰抜けだと評する人がいるかも知れない。しかし、がんじがらめになった対立を素早く解きほぐすのは白とも黒とも言えないグレーの歩みよりだと思います。それを世渡り上手というのでしょう。

「怒らないから正直に話して」と問いかける時、質問者はすでに怒っていることが多い。多くの人が経験していると思いますが、問いかけの通りに正直に話すとより怒られます。

この問いの本質は「上手く取り繕って私をこれ以上怒らせるな」というメッセージです。メッセージの本質理解と、白とも黒とも言えないグレーを上手く使いこなし表現する、相手の怒気を最小限に抑えることができる人を大人といい、それは子供には真似できない大人の妙技といって良いと思います。

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