生き残るための擬似家族戦略
昨年は仲良くなったラオス人3名のそれぞれの実家へ赴き、短ければ2週間ほど、長いと2ヶ月ほど一緒に暮らすという体験をしました。田舎なので不便で不都合なことはあったけれど、乳児から老人まで幅広く構成されたそれらの家族は力強く、そして楽しく過ごしているように見えました。
先日記事にした疑似恋愛に対して擬似家族というワードは聞く機会が増えたように思います。例えば映画では是枝監督の「万引き家族」、アニメでは「SPY×FAMILY」などの擬似家族もののヒットは多くの人の中で無意識的に家族の重要性を再認識している予兆ではないかと思います。
ご存知の通り、先進国各国では少子化が進んでいます。日本では生涯未婚率が男性は30%超えており、夫婦と子の家族という形態は主流ではなくなっていくのでしょう、減少の一途をたどっています。結婚したくない、子供を作りたくない理由は経済的なものなど様々あると思いますが、「自分一人のため」に努力する人間の方が「人のため」に努力するよりも、勝ち抜く可能性が高いという認識が大きな要因ではないかと思います。
私利私欲を追及するとき人間はその資質を最大化する。弱者に配慮する、「公共の福利」のために行動しようとすると、パフォーマンスは有意に低下する。それが現代の日本において支配的な人間観のような気がします。
自分にとって役に立たない人間(弱者)は排除した方が良いというタイプの考え、つまり「強者だけで作られた組織」は原理的にそのつど「組織内の最弱者」を指名し排除することを宿命づけられているので最終的には構成員がゼロになります(現在の未婚率、少子化が物語っている)
しかし災害や大惨事など突然の異常事態に立ち向かう人々を描くパニック映画の多くではきまって「足手まといになる弱者」を構成メンバーに迎えたグループだけが生き延びられるという話が繰り返し語られます。これはきれい事や美談ではなく、過去の成功事例が訓戒化されたものだと思います。映画だけでなく、強い者同士が集まったチームが最終的に勝つことができないのはアニメや漫画などにもよくみられる話です。
「弱者を含む集団」では生き延びるために、勝つために全員がその人にしかできない、代わりのきかない能力の発見に向かいます。一方、「強者集団」では全員が同一の能力の優劣を競い、格付けをし合います。優劣を競う限り、自分の能力を高めることと、他人の能力を引き下げることは同義であり、そのような組織が生き残ることは難しいわけです。
私が滞在したラオスの田舎は不便で不都合なことが多い環境ではあったものの、家族たちが強く楽しく過ごすことができているのは、乳児や老人という弱者がいたからです。人間がその才能を爆発的に開花させるのは、自分のためではなく「他人のため」に働くときだからです。
ゴーゴーバーではなぜ容姿が端麗でない女性を店側が採用しているのかずっと疑問に思っていました。容姿が端麗であることが一番重要視される世界にもかかわらず、明らかにそうでない人材を採用する理由がわかりませんでしたが、きっと一部の経営者は「弱者を含む集団」の方が容姿端麗な人材だけで組まれた「強者集団」よりもずっとタフネスで生き残ることを知っていたのではないでしょうか。(日本の新卒採用システムも腑に落ちます)
席に呼ばれた強者は客に姉や妹と称して弱者にドリンクを促す。弱者も誰かのために異能を発見し、誰かを支援します(言語能力に長ける、お酒を沢山飲める、盛り上げるのが得意など)。そして驚くことに強者も弱者もそこに損得勘定は働いていません。
なぜなら、すべての人間はかつて乳児であり、いずれは老人になり、高確率で病人になり、心身に傷を追います。だから集団のすべての構成員は時間差のともなった「私の過程」だからです。それゆえに他者を支援するということは「そうであった私、そうなるはずの私、そうであったかもしれない私」を支援することにほかなりません。
私はこれが東南アジアでみることのできる、過剰なまでの家族愛の正体ではないかと思います。今日まで受け継がれている生き残る術なのでしょう(徐々に薄まってきているようには思います)。
弱者を含む擬似家族として機能しているゴーゴーバーは生き残っており、容姿が端麗だけの強者だけで構成されたゴーゴーバーは淘汰されているというのが私の予想です。
これだけ簡単に会社やコミニュティを作れる世の中になりましたが、集団のパフォーマンスを高めるのは「非力な」成員を全員で「支援し、育て、未来に繋ぐ」という家族のシステムということを私たちは忘れています。私がラオスの田舎でみた家族、ゴーゴーバーにみられる擬似家族という形態が今後生き残るために必要な戦略ではないかと思います。
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