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家族のためのyoutube

今まで思い出に意味はないと思っていました。

例えば家族旅行や、学校の遠足など、そのほとんどを覚えてないし、今の自分の足しになったようにはどうしても感じないからです。修学旅行に行かなくても、それはそれで頑張って生きてるだろうし、わざわざ思い出を作るようなことをしなくても、生きている毎日が思い出になりうると思っていました。

しかし、本当に思い出に意味はないのでしょうか?いや、そもそも思い出に意味が必要なのか?思い出そのものが意味になりうるのではないか?自分は今まであまりにも意味に絡め取られていたのではないかと思うようになりました。作品作りにおいても、人間関係においても、つい意味を考えてしまう癖を身につけていたのです。

例えば時間も金もない時は立ち食いそばで済ませます。コストをかけずに早く食べられるという意味があるからです。でも本当はステーキが食べたいのです。でも、お金も時間もないという意味でやめるのです。

ステーキが食べたいということに意味はありません。意味がないことに人は途端に眉をひそめ、それをやめる意味を探し始める。もちろんそれを行動するための意味を探すこともあるでしょう。なんにせよ、僕らの衝動や想いやひらめきを冷却する存在が意味なのです。

仕事においても意味は高らかに発動されます。例えば自分の仕事であるwebCM動画制作の場合、クライアントに企画を提案するところから始まります。メンバーと「それオモローそうやな!」とか「オモローやんけそれ!」とか言いながら企画会議をするわけですが、でもクライアントはその面白さが立ち上がる瞬間にはいません。基本的にはそこで出た企画をまとめた企画書を渡して判断してもらわなければなりません。だからこれから作るものにはどれだけの意味があるのかを書き記すわけです。企画意図に「おもしろそうだから」とは決して書けないのです。

企画書を書く時に注意しなければならないのは、作る意味を優先しすぎて面白い部分が削られすぎてしまうことです。意味は作品を洗練させるし、テンポよくさせるし、まるで遠くの誰かまで届くような錯覚を起こさせるので、面白いよりも明確で、実に頼り甲斐がある。だからついつい頼ってしまうのです。

でも人間が感じる部分、言葉にできない部分、ムードや気分といいますか、そこまではやはり表現しきれない。表現しきれたら作品を作る意味がそれこそなくなってしまう。意味で表現できる範囲の面白いことで人は本当に感動できるのだろうか?森を見すぎて木を見ないといいますか、これはきっとどんなジャンルにも当てはまると思います。

意味に僕らはついつい頼って、ある時は顔色を伺って本音を隠したり、頃合いを見計らって本音を晒したりしながら生きています。人間社会を円滑に成立させるには意味という総論が必要不可欠なのです。でも僕らが産声をあげ立ち上がった瞬間に果たして意味はあったのだろうか?「人間が生まれた意味はなんだろう?」という哲学的な問いかけを耳にすることがありますが、立ち返る場所はいつだって「そもそも」な部分。つまり前提です。

前提の上にたくさんの意味がある。もちろん前提すらも意味だという言い方もできますが、この規制生から逃れることはできませんので割愛します。ひらめきや細胞の分裂に意味を見出すのが人間の美徳ではありつつ、その意味の過剰さに僕らはあまりにも疲れ切っているのではないでしょうか?

前提を掘り下げ言い換えると「好き嫌い」ということになるのかもしれませんが、「好き嫌い」すらどんどん言えなくなっている。

好きだからやろう、嫌いだからやめよう。行動を意味化できる大人たちは好き嫌いをそのものを軽蔑します。好き嫌いを認めてしまうと、自分の信じてきた宗教「意味真理教」を否定することになるからです。

だから思い出も意味化していました。思い出なんて意味がない。自分の都合に合わせた記憶の引っ張り出しあいによる茶番劇だと。

でも、どうしても思い出してしまうことがある。思い出したいことがある。悲しんだり、楽しんだりしたい自分がいる。そんな自分を一旦認めてみようと思い始めたのです。そこに至るには色々あり割愛しますが(2度目の割愛)そんなこんなで最近家族のYouTubeチャンネルを作ったのです。

いや〜本題まで長かったな。すいません。

これは家族しか閲覧することができないチャンネルです。グーグルの人が本気出せば見ることができると思うので、グーグルの人はやめてください。自分が今まで撮りためたものを編集しアップしています。そこにほとんど意味もKPIありません。あるとすれば家族が楽しめればいいというくらい。。なんて家族思いなんだろうと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、むしろ逆。たまったものを吐き出したいというクリエイターとして勝手な欲求に家族を利用しているだけなのです。

思い出という茶番に向き合う。意味に疲れた自分が意味に抵抗するためのレジスタンス。それが家族のYouTubeちゃんねる。

今回は特別にここまで読んでくれた人のためにそのひとつを公開します。期間限定です。

母の姉(僕の伯母)の記録映像です。

タイトルは「伯母Q」です。オバキューと詠んでください。動画内のタイトルが「叔母Q」になっていますが、間違いです。でもいいの。家族に向けた映像なので。

伯母は精神障害を患っており僕はそんな伯母が子供の頃から好きでした。伯母は千葉で祖父母と暮らしていたのですが、祖父母が他界したのち実家の近所に引っ越してきました。一人暮らしをしていたのですが、ある日今まで住んでいた千葉の家に帰ってしまったのです。もちろん引払っており、他の人が住んでいるので、警察沙汰になりました。そこから認知症の疑いが持たれもう先は長くないかもしれないと思い、伯母の記録を撮ろうとカメラを回しました。

これは、そんな伯母の記録の#1です。

読んでくれてありがとうございます。byシーズン野田


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